説教要約(4月)              


★ 2013年 4月28日 「歩こう、十字架を杖に」 ヨハネによる福音書 14章1〜11節

 「心を騒がせるな。」ギリシャ語で「騒ぐ」の原意は、「水が掻き立つ」という意味があるが、私たちの心の水面を掻き立たせる出来事は、突然にやってくる。そして、心に映っていた大切なものを見失うのである。
 そうならないように、「道」であるキリストにしっかり従うようにと聖書は言う。「道」とは何か。剣道、柔道、華道、合気道、様々あるが、それはスポーツの枠を超えて一つのことを極めることである。
 ロサンゼルスオリンピックで金メダルを取った柔道家の山下泰裕氏は試合にて大怪我を負った経験がある。3ヶ月にも及ぶ長い治療期間に、引退まで考えていたそうだ。しかし、辛い治療を乗り越えて復帰した。
 そして、金メダルを手にした彼は言う。「試合をする相手は、、敵ではなく自分を磨いてくれる人だと尊敬して、試合の前と後には必ず礼をするという柔道の本筋にかえり、これを乗り越えなければ真実の柔道家とは言えない。」
 私たちは、自分の進もうとする道に障害が起こると、それを回避しようとするのだが、そうではなく、その問題に向き合うことによって、自分が磨かれるのだ。違う道に進むのではなく、その道を突き進むため。
 ギリシャ語で「道」は、「踏みつける」という意味を持つ。つまり、十字架で犠牲になったキリストの命の上を私たちは歩いて行くのだ。私たちのために先に歩み、十字架によってこの地と天をつないだ道こそ、十字架の犠牲の命なのだ。
 だからこそ、どのような障害が立ちはだかる時も、その敵に見える存在が自分を磨くために神の思いからやってきたと信じながら、信じる道をまっすぐに歩んで行きたい。私たちは弱くとも、神の力は強い。そして、弱いからこそ、十字架の支えが私たちを力づけるのだ。


★ 2013年 4月21日 「二つを一つに」 エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節

 今年度の年間標語を「神の家を想う =二つを一つに= 」とした。会堂建築を含めた湖山教会の未来について、外なる教会(会堂)とともに、内なる教会(信仰)をどのようにして建て上げればよいだろう。
 2007年、カトリック教会を揺るがす一冊の本が出版された。「Come be my light」と題された本には、かの有名なマザー・テレサが、「心の闇」について神父たちに相談していた手紙がまとめられている。
 手紙を一部紹介すると、「私が、シスターや人々に、神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかし、その私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です。」とある。これは、1985年、マザー75歳の時に書かれた手紙である。
 この内容は、カトリックやキリスト教徒だけでなく、全世界を驚かせたと言っても過言ではない。あれほど、愛にあふれる奉仕を行い、貧しい人々を助けてきた彼女に私たちは心の闇を感じることが出来なかったからである。
 そして、この事実と共に、生きる者全てにとって、「心の闇」はいつか立ちふさがる恐怖となる。しかし、マザーはただ悶々としていただけではない。彼女は、「祈りのパートナー」という存在を持っていた。あるヨーロッパの病院にいる女性と祈り合う仲となっていた。互いのことを互いに祈り、マザーはその方を「第二の自分」として心の支えとしてきた。
 一人よりは、二人の方が心強い。そして、何よりもキリストは平和であり、隔ての壁を打ち破る神である。私たちが互いに寄り添い、祈り合い、愛し合う時に、心の闇に覆われ尽くすことはないのである。
 私たちの内なる教会である信仰と心は見えないからこそ弱いが、第二の自分が祈って支えているという思いは、二つの心を一つにする大きな力であり、天で見ている父なる神が喜ばれることなのだ。


★ 2013年 4月14日 「あふれる愛」 マルコによる福音書 10章13〜16節

 どこから赤ちゃんはやってくるの? 子どもたちが持つ三大疑問の一つだと言われています。それはまた、私はどこから来た、何者なのだろうという疑問だとも言えます。
 この、説明しがたく可愛い疑問を前に思い出すのが、「桃太郎」です。中国では魔を払う力を持ち、生命力を意味するのが桃ですが、それが「川」から流れてくる。それが昔話の時代の答えだったのでしょう。
 「川」の源はどこにあるのか。雨が降って土の中に吸い込まれ、それが水源となって川になります。そして、雨は天から降ってくる。つまり、命の源とは天にあり、子どもは神の子であると考えていたのではないでしょうか。
 子どもたちが関心を抱く赤ちゃんとは、実は目で見ている存在だけでなく、自分もまた赤ちゃんだったことを知った上で答えを知りたいのです。大切にされる赤ちゃんを見て、なぜ、愛されるのか、それは何者なのか、どこから来たのかという順に考えれば、子どもたちの関心が見えてきます。
 子どもたちは、特に小さな存在に対しての関心は強いものです。大体は自分よりも大きなものがある世界で、自分が「大きい」側に立つことは貴重な経験です。そして、何よりも、それが時にライバル(弟や妹ならば)と感じることもあるからです。
 だからこそ、大きな興味本位と小さな心配を抱えながら、赤ちゃんはどこから来て、なぜ愛されるのかが気になるのです。いえ、その小さな存在を前にしても、自分が自分のままで愛されるのかを。 
 イエスさまは言います。「子どもたちを愛から妨げてはならない。」みんなが神の子であるとは、その子も、あの子も、あなたも同じように愛される価値があることだということです。時間が足りなくても、言葉が出なくても、「あなたも神の子だから大丈夫よ」と思う時に、大切なものは確かに伝わります。 「どこから」でなくて、「ここにいる」実感を愛に与えてくれるのです。


★ 2013年 4月 7日 「不都合な真実」 マタイによる福音書 28章11〜15節


 2006年、米『不都合な真実』というドキュメンタリー映画が発表された。主演アル・ゴア元アメリカ副大統領が環境破壊と地球温暖化の悪化とその影響を科学的に立証し、世間は驚いた。
 しかし、イギリスの小学校での上演をきっかけにその真偽が問われ、英高等法院において、9つの誤りがあると判決が下された。実のところ、環境問題に無関心な当時のブッシュ政権と世論に対して、センセーショナルに描いた環境問題は、政治的な意味での宣伝として語られていたのだ。
 『不都合な真実』にも、不都合な真実は隠されていた。社会一般では、真実など興味はなく、いかに人の目を引くのかが重要なのだ。そして、その風潮は教会の中にも影を落とす。
 先日、イースターを記念として40年ぶりにトリノの聖骸布が公開された。一枚の布に十字架にかかった姿の影が映し出されているもので、それがキリストなのかが、この数百年の間、様々な角度から調査されてきた。
 結局、真偽は分からない。いや、真偽にこだわらない方がいい。この聖骸布が公開されたのも、先日交代したローマ法王が行った「最後の偉業」のようなものでありカトリック界の政治的意味合いが強いと感じたからだ。
 キリストの遺体が置かれた墓は空だった。何か遺された物に目を囚われないようにするためだったように思えてくる。何が真実で、何がウソなのか、人間には最期まで分からないのだから。
 復活の真実は、空の墓にはない。それを見る私たちにある。空の墓は、確かに私たちの関心と目を釘付けにするからだ。でも、向かうべき真実は、「あなたの中にキリストが生まれました。」というメッセージなのだ。信じる気持ちは小さくても、それは大きく成長し、私たちを内から支える力になります。私たちが笑顔であれば、それを見る人たちは、復活の真偽を私たちの姿から知るでしょう。