説教要約(3月)                        

★ 2013年 3月31日 「おはよう、おはよう」 マタイによる福音書28章1〜10節

 「おはようございます」、一日を始める大切な挨拶当番を、お隣のひかりこども園でさせていただいている。元気に挨拶をしてみると、一人ひとりの園児、保護者の反応は色々。各家庭の風景を想像しながら、今日一日が楽しくなるようにと思いを込めて届け、おはようございます。
 一言の挨拶は社交辞令だけの役割ではない。ドミノ倒しのように気持ちも伝わっていくのではないか。深いおじぎと心からの挨拶は、自然と次の人にも伝わっていくもの。そうして、一人の挨拶がみんなを元気にする。
 「おはよう」という挨拶は、十字架の死から復活されたキリストが初めて発した言葉として記されている。本来のギリシャ語ではカイロー(喜びなさい)は、一般的な挨拶に使われる言葉である。
 ギリシャ語カイローが同じマタイによる福音書で使われている箇所を拾ってみると、弟子ユダがイエスさまを裏切る場面で、「こんばんは」と挨拶する言葉であり、もう1つは、兵士たちが十字架刑を前にして、イエスさまを罵倒する場面で、「ユダヤ人の王、万歳」と言う「万歳」に訳されている。
 このように、挨拶の言葉だけを振り返ってみると、カイローはイエスさまにとって全く喜ばしいものではなかった。悪意に満ちた挨拶であったが、それでも、復活の後すぐに、この挨拶をされたことは深い意味がある。
 心理学の用語で、ダブルバインド(二重拘束)というものがある。肯定的なもの、例えば、「おはよう」という挨拶と、否定的なもの、例えば、暗い表情が同時に見える時に人間は不安になり、二つの気持ちが葛藤する。
 裏切って、逃げ出していった弟子たちに、どのような表情で「おはよう」と言ったのだろうか。もし、私たちが笑顔のイエスさまを思い浮かべることができれば、私たちの罪や悪は赦されている。良いものを受ける価値もなく、暗い表情を見れば思い当たることが多い私たちではあるけれど、だから、この「おはよう」から新しい復活の世界が始まり、赦された世界で生きられる。


★ 2013年 3月24日(日) 「遠くから見ている私」 マタイによる福音書27章32〜56節

 受難週を過ごす私たちにとって、十字架の存在がいつも以上に大きく受け止められているだろうか。イエスさまと共に歩んだ弟子たちは逃げ出し、世話をした婦人たちが遠くから十字架を眺めていた。
 ケセン語聖書の著者で、自身も被災された山浦玄嗣師の体験だが、被災地を取材するメディア関係の人々が、「なぜ、神はこんなむごい目に遭わせるのか」と口々に尋ねてくるそうだ。
 山浦師は、そんなことを考えたこともないし、気仙の信心深い友人たちもそんなことを考えたことはない。考えている時間など全くないからだ。それよりも、お前たちの信じる神は何をしているのかと、意地の悪い質問を受けたように思ったと述べている。
 関心を持って近づくことは大切でも、常に問題から遠く立って眺めている私に気付かなければならない。周りの人々が持ってきた「なぜ」という疑問は、結局のところは全く共感できないものであり、渦中の人々は目前の命を生きるのでやっとなのだ。
 キリストも「なぜ」と言ったのだろうか。十字架上での言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22編を意識している。そこには、なぜかと神に聞き出したい思いを書きつつも、その続きには、「あなたにより頼んで、裏切られたことはない」と断言している。
 十字架の上で命のともし火が揺れるときも、キリストは神への信頼を崩したのではなく、「なぜ」と思っている周りの人々に詩編の言葉を思い出させようとされたのだと信じている。
 遠くから見ている私を責めるわけではなく、十字架という絶望にはりつけられながら、必ず神の助けがあることを望みながら生きる強さを与えてくださっているのだ。十字架の意味が、一人ひとりに迫っている。

★ 2013年 3月17日(日) 「身代金」 マタイによる福音書20章20〜28節

 学生の頃に訪れたワシントンのセイヴァー教会。会員150名ほどの集まりは200近くの施設に運営や関係を持っている。路上生活者支援、障害者支援、社会福祉病院などである。会員は個人の裁量で可能な限り施設でのボランティアに参加している。平日の遅くや休日に施設で働くのだ。
 何より印象的だったのは、路上生活者への炊き出しを行っているカフェで皿洗いを7年も続けている男性が、実はホワイトハウスに勤める官僚だったことだ。実直そうな人柄に、仕事も奉仕も大切にしている姿だった。
 仕えられるためではなく、仕えるためにこの世界に来た、送、キリストは語る。まさにあの官僚は良い模範になるだろうが、身代金という例えは少し文脈からすると違和感を与えている。
 「仕える者」とは、いわば家事手伝いのことであり、「僕」とは直訳で「奴隷」を意味する。そして、この『身代金』が意味するのは、奴隷と解放するためのお金である。
 仕えよ、奴隷のようになれと語りながら、それを解放する身代金をキリストが支払われるとは、矛盾でしかないように思う。しかし、この問題は、現実的な配慮からあるのではないだろうか。
 仕えよ。育児、介護、看病、その他、家族の中で行われる働きに言えることは、家族という関係の中で逃げられない部分が存在すること。その中で、自分の足りなさ至らなさを感じながら「奴隷」のように疲労と悲しみにつながれている。
 だからこそ、十字架という身代金が必要なのである。その人の足りないと感じる部分を神さまが補ってくださる、そう信じること。そして、奉仕自身が神さまに祝福されるように祈り、神の手に任せるとき、その人自身も、相手をも神さまは解放してくださるのだ。大丈夫、十分だと語っておられる。

      
★ 2013年 3月10日(日) 「明星よ、照らしておくれ」 ペトロの手紙U 1章16〜21節  

 私たちを真っ白な光で包み込む朝のように、世界が明るく見える。それが救われるということなのだ。そして、明けの明星とは、キリストのことであり、十字架刑という闇にもかかわらず、復活するという希望である。
 さて、明けの明星は、ラテン語では「光り輝くもの」を意味するルシファーと訳される。と同時に、ルシファーとは堕天した悪魔の名前でもある。明けの明星がルシファーとされるには、以下の説明がされる。
 イザヤ書14章12節に、「明星」について記述されている。「ああ、お前は天から落ちた 明けの明星、曙の子よ」 これは、昔々、バビロンという大きな国家が滅びたことを、神の裁きが下って天から落ちたと預言したものだ。
 それからキリスト教が生まれ、ローマ帝国の国教化とともにラテン語翻訳される中で、ペトロの手紙とは違う意味合いで翻訳され、明星=堕天となり、ルシファーという堕天使に結び付けられてしまったと考えられる。
 翻訳上の行き違いであっても、天から落ちた明星が最終的にキリストを意味することになったのは深い。なぜなら、確かにキリストも天から降りて来られ、この世界という闇の中で生きられたからだ。
 ドイツ人心理学者 ヴィクトル・フランクルが書いた「夜と霧」は、ナチスが行った強制収容所での体験を記している。個性を奪われ、無意味な労働と圧倒的な命への軽蔑の中で、人が生きる意味を問うている。
 フランクルは言う。「人間とは、人間とは何かを常に決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。」
 人間の闇を人間が払うことはできない。だからこそ、人間の闇へと降りて来られたキリストに私たちは希望する。小さな星の光でも、手を合わせて祈るならば、朝はそう遠くない。信じるだけで、どれだけ明るくなれるだろう。

★ 2013年 3月 3日(日) 「天秤にかかる命」 ヨブ記1章1〜12節

 なぜ、苦しまなければならないのか。大きな問題がそびえ立つ山のように目前に構える時、通らざるを得ないトンネルとして暗闇は命を覆う。その闇の中で叫んだヨブの声は、私たちの声に重なる。
 ヨブ記は大きく分けて2部構成だと言われる。初めの1〜2章と終わりの42章は散文体で、3章〜41章は詩文体であり、その他の理由もあって、2つの作品が結実したものだと言われている。
 その2つの作品には苦しむ理由がそれぞれある。散文体の方では、天上で神さまと悪魔がヨブの待遇について取引する。つまり、苦しみは悪魔が願い出て苦しめる人を選んでいるということなのだ。
 では、もう1つの詩文体ではどうだろうか。この作品の大部分はヨブと友人たちの会話である。そして、こう言う。「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆慰めるふりをして苦しめる。」(ヨブ記16:2)
 苦しみを天上が定めた運命なのか、はたまた、人間の関与によって深まるものなのか。いずれにせよ、人は苦しむ。その答えを得るには友でない存在と命を賭けた対話をしなければならない。聖書はそれを神さまとしている。
 苦しみを原点に、命を賭けた対話をする機会が私たちに与えられる。そもそも、イスラエル(神と戦う者)という聖書の民の名前にあるように、本当に必要な答えは、神さまと取っ組み合いしながら、分かるものなのだろう。
 ヨブの話に戻るが、彼の妻は非常に失礼な言葉を発している。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」でも、もし、夫婦が一体ならば無垢な信仰と神への疑いは常に同時にあるのだ。
 確かに良い友はいる。しかし、慰めも優しさも埋め合わせられない、渇きのような深い疑いで、苦しみは渦巻いている。しかし、つぶやきも不平も神さまは聞いてくださる。感謝も、祝福もできない貧しい祈りであっても。