説教要約(2月)                                    

★ 2013年 2月24日(日) 「天の国に入る」 マタイによる福音書 5章17〜20節

                         ※倉敷教会牧師 宮ア達雄先生による説教です。(教区交換講壇)


 教会歴では、2月13日(水)より、レント(受難節)に入りました。この期間は、キリストの苦難を思い、悔い改めとイースターへの備えの時でもあります。有名なバッハのマタイ受難曲をこの期間に聴き、その歌詞を味わってみるのも信仰の養いになるのではないでしょうか。
 今日の箇所は、「律法について」のイエスの教えです。17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とありますし、さらに、20:「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」とあります。このことの意味について今日は考えてみたいと思います。
 まず、イエスは律法主義を非難されましたが、律法自体は認めておられたということです。律法とは、狭い意味ではモーセの十戒のことです。キリスト教では、よく律法主義という言葉を使いますが、これは2000年前、イエスの活動を批判していた律法学者やファリサイ派の人々の生き方に対して語られる言葉です。律法学者やファリサイ派の人々は民のリーダーでしたが、様々な細かい戒めや規則を作り、「これをしてはいけない。」「あれを守らねばならない。」と言っては、人々の生活を苦しめていたのです。例えば、安息日の規定では、現在の土曜日がユダヤ教の安息日にあたりますが、安息日に病人を癒す治療行為をしてはいけないとか、料理をしてはいけない、これは火を使うので労働になるからダメなのです。また、一説には1100m以上歩いてはいけないという規則もありました。人々は仕方なく、それに従っていました。しかし、イエス自身は律法を完成するため、すなわち律法の根本精神に立ち返りながら、律法学者と呼ばれた人々と闘って生きていかれたのです。
 イエスは、形だけになってしまった十戒の戒めを生きたものに戻そうとされたのです。
 20:「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」ここで言われる「義」とはなんでしょうか。今日では、「神の真実」とか、「やさしさ、施し」、また、「神さまの御心を行うこと」などとの訳もあります。神が昔からイスラエルの小さな弱い民に対して持っておられた真実、やさしさ。救い主であるイエスをこの世に送るという真実。この神に応えるキリスト者の生き方は、神さまの御心を行おうとする道を歩むことなのではないでしょうか。
 また、「天の国に入る」という言葉が使われています。天国とか、神の国と言われることもあります。天国とは、やがて私たちが召された後に入る世界のことであるというだけではなく、メシアであるイエスが地上に来られてからは、すでに私たちの中に実現しているのです。神の国はすでに私たちの間にあるのです。そこには、平安と安らぎが満ちています。
 イエスと共にある場所、共に過ごす時、共にある親しい関係。主日の礼拝の時と場所は、まさに天の国、神の国をもたらしてくれているのではないでしょうか。私たちは、天の国に、あるがままで招き入れられていることを、感謝し喜びたいと思います。
 受難節、レントの歩みを続ける中で、天の国に招かれている者たちとして、神の真実に応えることを日常生活の中で実践していきたいと願うのです。


★ 2013年 2月17日(日) 「定礎」 マタイによる福音書 4章 1〜11節

 信じる思いは確信と疑いの間で揺れ動く。一つの出来事を機に決心をしても、一つの出来事でそれは崩れ去る。信じようとする気持ちと誘惑との戦いを通して今、63周年を迎えた湖山教会は立っている。
 誘惑は人それぞれだ。禁酒している人の前に酒を置くことは、誘惑になっても、そもそも、飲酒できない人の前に置いてもその人の思いを揺さぶることはない。禁煙も、ダイエットも同じことである。つまり、誘惑とは自分の中にある性質がはっきりと表れることでもある。
 「荒れ野」で誘惑を受けたことには意味がある。それは、荒れ野で聖書の民イスラエル人が指導者を疑い、神さまを疑い、前に進まない旅を思い出させる。その性質を神さまは「かたくな」であると言う。この「かたくな」な性質こそ、人間の奥底にある困った部分なのだ。そして、旧約聖書は「かたくな」な人間の思いを変えるため、神さまが長い間、忍耐された話でもある。
 イエスさまの教えは数多くあるが、最も重要な掟を尋ねられた時、「神を愛する」ことだけでなく、「人を愛すること」、二つを同時に答えられた。それは、「かたくな」な思いを変えるためだったと考えている。
 愛は一途であるが故に、その他を切り捨てることも出来る。唯一の神を愛そうとした民の歴史は、独善と排他という結果を残した。一つを愛するために多くの犠牲を強いた。だからこそ、人を愛することで愛に幅を加えたのだ。
 もっとも、イエスさまにその思いはなかったが、私たちが「かたくな」な自分に気付くためにも、荒れ野で誘惑を受けられたのかもしれない。人間の愛は、「かたくな」な石のように視野が狭くて重荷になるが、神さまによって砕かれた思いは、もう一度集められて教会の土台になる働きをしてきたのだ。
 「教会50周年記念誌」の中で好川つね姉は言う。「信仰は炭火のよう。一つだけでは消えてしまう。だから、湖山教会に集められて良かった。」独善と排他から解放された感謝が、この教会の下を支えている。


★ 2013年 2月10日(日)  「渡る世間に鬼はなし」  マタイによる福音書 14章 22〜36節 

 「渡る世間は鬼ばかり」は、TBSで20年間放映され、「渡鬼(わたおに)」と省略されて、今でも親しまれているドラマである。プロデューサーの人は言う。「ただの家族ドラマではない。日常がミステリーなのだ。」
 無理やり舟に乗せられた弟子たちは、嵐の中でイエスさまを「幽霊」と見間違う。まるで、渡る世間は鬼ばかりとはこのことだろう。私たちは渡らなければならない世間があり、そして、出会いはいつもミステリアスなのだ。
 鬼や幽霊が出てくるからミステリーなのではない。鬼や幽霊に見える人間関係のゆがみがある、それがドラマの意図であり、弟子たちの心理だったのではないだろうか。本当の鬼や幽霊ですら恐れる人間の本性があるのだ。
 弟子たちを強いて舟に乗せたイエスさまの思いは何だったのか。実に「離れる」ことは信じることに関係している。信仰の父アブラハムに神が語った時、行き先は「私の示す地」の一言だが、しかし、離れるべき場所として、「生まれ故郷、父の家」と書いている。口語訳では、「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ」と重ねて説明している。
 つまり、信じるとは、離れることでもあるようだ。私たちの周りのある物、人、出来事、生活、ルール。それら一つ一つから距離をとること。利害によって近づきすぎては衝突する人間同士には理解できないことかもしれない。
 弟子たちも、初めは離れたこと自体に不安を持ち、イエスさまに対して疑いを持ったのだろう。でも、離れたからこそ、見えてきたこともあるのだ。強く信じるとは、水の上を歩くような奇跡ではなく、主が近づいて来て下さると信じることであり、全ての人をそう思いながら受け入れる姿勢なのだ。
 世界伝道を担ったパウロは、ローマの信徒への手紙の最後に、多くの人たちに「よろしく」と残している。「渡る世間に鬼はなし」なのだ。私たちの周りに多くの協力者がまだ隠されている。そう信じたい。

★ 2013年 2月 3日(日)   「思いのカケラ」   マタイによる福音書 15章 21〜31節


 冷ややかな対応をするイエスさまと熱心に助けを求める女性の様子からは、見事に返答したこのカナン人女性の利発さが目立つ物語である。しかし、物語の真意は、そこまでに至る経緯を知って、また深くなる。
 カナン人女性と出会う前、イエスさまは律法学者と宗教的な「汚れ」について議論していた。その中で、汚れとは、人の外から入ってくるのではなく、人の内から出て、人を汚す思いや言葉だと教えておられた。
 そして、カナン地方にやってこられたのだ。その真意は、「汚れ」とされる異邦人を前に、弟子たちと確認するためだった。何度も助けを求める女性に対して沈黙していたのは、弟子たちの反応を見ていたのであり、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と語って、イエスさまは、弟子たちの心理を言い表している。
 では、人から出るものが人を汚すのなら、それを清めるのは何か。その答えこそ、この旅の目的であった。イエスさまは、敢えてカナン人女性に、「小犬」という異邦人の蔑称を使う。そうしなければ、この物語は単なる女性の物語で終わるからだ。全ての異邦人に関わる問題となった。そして、これは女性の発した「ダビデの子」という呼び方に対照的である。
 ここには、異国の神、異国の人間という見方しかなく、カナン人女性も子どものためでなければ、イエスさまに頼る必要はなかった。「ダビデの子」という思いには、神でも悪魔でも子どもを助けてくれという必死さが響いている。
 「小犬」という言葉に怒りもしただろうが、彼女は冷静に状況を理解した。小犬とはあなたの子どもなのか、それとも、あなた自身なのか。本当に哀れなのは、自分と神は(異国のような)別次元にいるのだという絶望感ではないか。主は求める者に近寄って来られる。そう信じたからこそ、イエスさまは、カナン地方に出かけられたし、今も、様々な国でキリストの名が伝えられるのである。パン屑は落ちたのではない。そっと投げ出された思いなのだ。