説教要約(12月)                          


★2013年12月29日(日) 説教題「導く星、見つめる母子」 マタイによる福音書 2章1〜12節

 聖書はキリスト誕生に居合わせた東方の学者たちについて記している。彼らは遠い東の方からやって来たとしか書かれておらず、身分の高さを感じさせるような高価な贈り物(黄金、没薬、乳香)を幼子イエスに渡した。
 おそらく遠方から来たであろう彼らは何者だったのだろうか。また、パレスチナ一帯の地名を詳しく知る聖書が、ただ、「東方から」と記している意味はあるのだろうか。この方角に注目してみたい。
 東西南北の方角はその地に住む人々の心情を表現することもある。北枕を嫌う傾向があり、関東と関西という言葉によって東西のイメージが作られている。ならば、聖書においても、「東」に意味があるのではないか。
 人類初の兄弟カインとアベルは成長し、労働の実りを神に捧げる時が来た。神はアベルの捧げものを喜んだが、カインの捧げものを拒んだ。カインは怒って弟アベルを殺害した後、エデンの東、ノド(さすらい)に逃亡した。
 これらの記述を重ね合わせると、聖書においては、「東」は人々がさすらう場所であり、罪人が逃げる場所であり、神の目から遠い場所である。何よりも、神への捧げものが原因で東へと逃亡したことは、学者たちにつながる。
 東方の学者たちは、カインの子孫だったのだろうか。いずれにしても、さまよう地から抜け出し、救い主を探す旅に出かけた。そして、幼子イエスの前に捧げものを差し出すとき、長い歴史を遡ってカインの所業を思い出す。
 実のところ、学者たちの捧げものは高価なだけではなく、カインの思いが砕かれて黄金、乳香、没薬となったのではないだろうか。そして、長い時を経て神の子にその思いが受け入れられたのだ。
 だからこそ、東方の学者たちが恭しく捧げものをする時に、私たちもまた、カインに等しく自分の都合で神の前から去ったにもかかわらず、このように命を与えられて神に受け入れられていることを深く感謝する。

★2013年12月22日(日) 説教題「胎動と祈り」 ルカによる福音書 1章39〜56節

 腹を打つ、蹴る足でさえ、愛おしい。そう、エリザベトは語ったかもしれない。胎動は、扉をたたく、挨拶。マリアはその言葉に返したかもしれない。生まれてくる命は尊いはずである。しかし、人は時代や考え方、状況が変わると、大切なことや意味あることまで変わってしまう。
 2002年上映の「ぼくのかみさま」(英題「Edges of Lord」)は、ポーランドのある村でユダヤ人であることを隠しながら生きる少年の物語。少年は素性を隠してキリスト教徒として振舞っていたが、そこの牧師は気付いていた。ある時、キリスト教の儀式に使うパンの切れ端を、「この部分は、祝福されていないから大丈夫」と言って少年に与える。
 少年は、まるでユダヤ人であることが人間の「切れ端」であるように感じて、「ぼくたちは祝福のない切れ端なんだ」とつぶやく。それに対して、「人間はみな切れ端なんだ。でも、祝福を受けている。」と牧師は答える。映画の最後で、他の子どもたちと一緒に儀式に参加した少年に、牧師はパンの切れ端を渡して言う。「これは祝福された切れ端だ」
 儀式に使う聖なるパンとそうでない切れ端。もとは1つのパンから2つの聖と俗が生まれる。そして、命をこのパンに例えることができるだろう。喜ばれる命とそうでない命。エリザベトとマリアの妊娠も光と影の関係にある。
 エリザベトは高齢であったが、念願の男の子を産む奇跡を身に受けた。出産は喜びの頂点である。しかし、マリアはどうだったか。神の力によって妊娠したというが、実際相手の分からない子を宿している。人口調査のために実家に戻った彼らが宿屋を探したのは、誰も泊めなかったからだろう。
 それでもなお、聖書はマリアの喜びの歌を伝えている。悲しみを喜びに変えた母の歌は,私たちの命を応援している。なぜなら、人間の切れ端だと言われる人々のために、神は大切な御子キリストを十字架でささげられてもよいと、御子という贈り物を人類にされたからである。

★2013年12月15日(日) 説教題「古い夜と新しい朝」 ペトロの手紙U 3章8〜14節

 当時、キリストを信じる者たちにとって不遇の時代だった。まず、ユダヤ教からの迫害を受けたが、これは特に教えに関する非難だった。その後、ローマ帝国に皇帝ネロという残虐な支配者が武力やあらゆる手段で迫害を強め、続く皇帝ドミティアヌスは皇帝崇拝を強要した。「終わりなき」迫害の只中で、神が世界を終わらせることを願うのは、分からないことではない。
 そのように、まだか、まだかとキリストが現れることを待ちわびる中で不信感も出てきた。キリストは遅れていると。その声に対して、神にとっての一日は人間の千年であり、神の時間を受け入れるようにと教えている。
 このように、迫害に苦しむ人々が切実な思いで世界の終わりについて考えていたのだが、現代の私たちには共感が難しい思いなのかもしれない。では、現代では、どのような感覚で世界の終わりを見つめているのだろうか。
 小説「レフトビハインド」は、2002年にアメリカで出版され、瞬く間に人気を得て世界中で読まれている。小説では、世界の終わりには、神を信じる者だけが「携挙」といって、千年王国(神の国)に連れて行かれ、その他は地上に「残される(=レフトビハインド)」。この地上に残された人々の姿が、不安と恐れとわずかな希望で描かれている。
 この考えに賛成するわけではないが、自分が「取り残される」という不安を現代人が共感していることに気が付いた。自分が悪いことをしている、または良いことを出来ていない、だから、もし、神の国があったとしても置いていかれるという不安を隠して生きている。
 私にはそこに行く価値がない。見えない不安が、寂しい夜にふと大きくなることがある。キリストが幼子の姿で世界に来た意味は、希望を「育てる」ことであり、一人一人が神の国に入れるまでゆっくり成長しながら待つということなのだろう。寂しい夜に古い自分を捨て、明るい朝に新しい自分になろう。神さまはその時を今も待っておられる。

★2013年12月8日(日) 説教題「神の言葉が形になって」 マルコによる福音書 7章1〜13節

 物語では、「汚れ」ということに関心が向いている。食事の前に手を洗うかどうかといえば小さなことのように感じるが、衛生的に汚いということを問題にしているのではない。
 ファリサイ派や律法学者たちが言う「汚れ」とは宗教的なもの、神の目から見てという意味である。日本で言えば、呪いや祟りに近いかもしれない。ユダヤ教を信じる人々は、礼拝所に入る前に身を清めるからである。特に祭司などは全身を水で清め、敬虔な信者でも手を清めていた。
 イエス様とその弟子たちは、身を清めることをしなかったので指摘を受けたのだが、それは食事での席だった。いつでも、相手の小さなミスや違いを大きな声で問題にする人はいるようだ。
 日本でも同じようなことが起こっている。今年になってヘイトスピーチなるものが、日本全国で引き起こされた。特に在日韓国の方を標的にした異様な攻撃的発言が路上で繰り返された。
 ヘイトスピーチを行う団体の中にも、理論的な意見や真剣に取り組む人もいるようだが、その多くは議論もできない一方的な攻撃性を顕にする人たちである。彼らの発言を聞いていくと、一方的な「被害者意識」と「主体性のなさ」が見えてくる。
 現実の貧困、家庭的問題、悩みなどを外面化して誰かにぶつけたい、それが本音のように思える。そうして、一方的に相手が「汚れ」た存在だと主張していると同時に、自分を守ろうとする保身的な思惑があるのだ。
 イエス様が手を清めなかったのは、汚れているとされる人々の側に立ちながら、誰もが清められたいと願いながら、一方的でわがままな気持ちから差別される人々の側から見ておられる。キリストの十字架を前にして、私たちは罪人であり、「加害者」であることを自覚する。問題は自分の思いを誰かにぶつけるのではなく、赦されたいという内なる願いを見つけることだ。


★2013年12月1日(日) 説教題「闇夜を裂く希望の光」 イザヤ書 51章4〜8節

 イザヤ書とは、古代イスラエル王国から分裂した南ユダ王国について書かれた預言書である。王国時代の後期を描き、衰退と滅亡の中で神に向き合う姿勢を問った。イザヤとは預言者の名前であるが、記述内容から複数の著者がいるとされており、誰であったか断定できない。
 王国と共に打ち砕かれたのは信仰であった。または、信仰が崩壊したからこそ王国が滅亡したと言ってもいいかもしれない。12の部族からなるイスラエル民族が1つになるには、1つの神を信じる結び目が必要だったからである。
 その信仰を再び起き上がらせるために、イザヤ書は、原点であり民族の祖先であるアブラハムとサラを語る。彼らはかなり高齢になって神を信じるようになったが、その姿を石が切り出された石切り場であり、粘土を掘り出された穴だと言う。それは、もう子どもが出来ない枯れた状態を意味した。
 しかし、そのような全て奪われて何も残っていないような人々に、神の力が働いて、イスラエル民族は生まれた。だからこそ、祖国の荒れ果てた姿を見たり、同朋が連行されたりする事実の前で、神に希望せよと語る。
 昔の出来事であるため、想像しにくいだろうが、ここで言われていることは難しいことではない。初めからあったものはなく、終わりまで続くものもない。だから、無くなったり、失ったりしても諦めてはならない。
 確かに失うことは恐ろしいことである。しかし、それ以上に所有していたことに気付かないことは、心のほころびとなる。私たちが目を閉じてすべての物から離れて祈るように、クリスマスの夜、ただ、キリストだけに目を注ぐ準備をしていきたい。