説教要約(10月)                


★ 2013年10月27日(日) 説教題「頭も、心も固い人」 マルコによる福音書10章2〜12節

 『八重の桜』が放映されて9ヶ月が経とうとしている。幕末に生を受け、開国へのせめぎ合いの中で戦場に立った女性。故郷を失い、夫を失い、過去を背負いながら、新しく人生を始めなければならない姿は、東北で復興を願い生き続けようとする方々に重なる。
 八重もまた、死ぬべき存在だった。会津戦争で敗北した人々は捕虜として猪苗代へと移送されるのだが、その道中で女性であることが判明して、八重は戻されることになる。切腹の覚悟をして歩き出した道を帰ったのだ。
 守部喜雅氏(クリスチャン新聞編集顧問)の講演会を聞いた。京都での生活は、まさに、新しい人生への復興だった。兄との再会、新しい夫との出会い、そして、新しい宗教との出合い。
 その新しい人生を前にして、どうしても変わらなければならない部分があった。それは、「ならぬものはならぬ」という信念である。言い換えれば、頭も心も頑固な人間から、相手を受け入れる柔らかい心の持ち主になる。
 漢訳聖書を読みながら、いつもの「なじょして・・・」と言いながら、疑問にぶつかったのかもしれない。守部氏は、愛と赦しがテーマだと語る。会津戦争の仇であり、京都で出会った薩摩・長州への人々への赦しが、隣人愛として迫った。
 『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである』を思い出した。女性であるために、「ならぬものはならぬ」社会で身を狭くして生き、男性でありたいと願って戦争にも参加したが、最後には女性であることで生き残ることになった。
 貧しいと感じていた女性の身分で、生き残ってしまった。それはまた、被災地で自分だけが生き残ってしまったという罪を負う人々に、だからこそ、訴えるのかもしれない。でも、そこが始まりなのだ。天の国、新しく生きる道を必ず神さまが与えてくださる。新しい夫、パートナーは神さまだから。  


★ 2013年10月20日(日) 説教題「元気を分けて」 マタイによる福音書25章1〜13節

 元気になろう。エイジングケア、村おこし、復興、デフレ脱却、そして、教会もその流れにあるのだろう。それと同時に、元気であることが望まれ、元気になってという思いが、知らずに相手を傷つけてきた現実もある。
 聖書の物語では、賢い乙女と愚かな乙女が出てくる。このたとえ話の意図は、どんな時に神さまが迎えに来ても準備ができているようにということである。同時に、祝宴に間に合わなかった愚かな乙女たちの姿が哀れにも見える。
 夜の闇に備えて火の油を準備する。そして、それを怠った乙女たちがここで問題になっている。油がなくなるまで気が付かなかったというのであれば、確かに愚かと言われても仕方ないかもしれない。
 アンパンマンの生みの親、やなせたかし氏が13日に逝去された。アンパンマンはキリストを手本にして作られたというが、弱い人のために自分自身を分け与えていく姿は、確かにキリストを表現している。
 最近、やなせ氏ガ「タダ働き」をしていることを告白した。地方独特のゆるキャラ作成を頼まれるが原稿料もない。でも、「俺は巨匠にはならない」という思いで、どんな仕事も受けたそうだ。
 その姿をよく知る友人は、やなせ氏こそアンパンマンだと言った。自分を頼って来る人のために、損でも何でも受けて、自分を差し出していく姿はまさにそうだろう。
 自分を使い果たしたやなせ氏の姿と、油を使い果たした愚かな乙女と重なった。でも、神さまはそう見てはおられないだろう。実はこのたとえ話自身が現実を裏返しにしている。
 他人のために自分を使い果たして亡くなった人こそ、神の国に招かれているのである。いっぱい元気がある人が元気を分けてあげるのではなく、一つしかなくてもそれを分ける力こそが、元気の源であり、神の祝福を受ける。


★ 2013年10月13日(日) 説教題「人間の生くらべ(せいくらべ)」 マタイによる福音書25章14〜30節

 聖書の物語では、三人の僕が主人からそれぞれに財産を与えられ、その後それをどう活かしたかを描く。一番少なかった僕は、財産を使わずに土の中に埋めて、帰ってきた主人にそれをそっくりそのまま返した。
 あなたがもし、一番少ないものを受けたとすれば、叱られた僕の気持ちも分かるだろう。なぜ、自分が少ないのか、他の二人と比べて、そうつぶやきくもなる。生きることもまた、神さまからの贈り物を、どう受け取るかで、土に埋めて眠らせるのか、使って活かすのかが変わってくる。
 お金の単位である「タラントン」は、英語の「タレント」の語源だと言われている。才能、能力という意味合いであり、それは神さまから与えられたギフトだという考えがそこにある。
 そして、同時にこのタレントという言葉によって、人間の能力はそれぞれ違って、その人に応じて神が与えたのであり、隠された、自分にしかない能力を神さまのために活かすようにと、語られてきた。
 それも間違いではないが、果たして神さまから受けたタラントンは、個人的な能力だけなのだろうか。そもそも、福音書に出てくる多くの物語で、お金や借金は、能力ではなく、神さまから与えられた「赦し」を意味するものだったではないだろうか。
 そうなら、私たちが受けたタラントンとは、芸術や技術といった能力ではなく、私たちが行ってきた罪や問題への赦しであり、つまりキリストの犠牲であり、同時に誰とも比べられない罪とその赦しなのである。
 良い面をみると、人間は比べたくなる気持ちが表れ、その部分だけを比べる。まるでドングリのように、「背」ではなく「生」を比べる。でも、赦されたという気持ちは比べることはできないし、ましてや罪の重さが大小を決めるのでもない。そのために犠牲になったキリストの愛が、赦しに重みを与える。


★ 2013年10月6日(日) 説教題「笑悲税(しょうひぜい)」 マタイによる福音書22章15〜22節

 今月初めに、内閣から消費税の増税が実施される時期について言及があった。円安を受けて、活性化の兆しを見せる日本経済にとって、少し足早な対応であるように感じ、生活に不安を覚える方も多いだろう。
 増税に一方的に反対しているのではない。東北に目を向ければ、復興を願う人々のために、また、社会全体を考えれば、福祉や教育に必要な費用に充てられることを思えば、その税の重荷も互いに背負い合うものであるはず。
 しかし、国民一般を覆っている感情はそうではない。悲しむ人が笑うために互いが重荷を担い合う社会を実現する税金ではなく、悲しむ人がいる一方で、笑う人がそれに関わらない状況があるからだ。
 その点で、今や税金は互いを担い合うシステムではなく、笑う者はさらに笑い、悲しむ者は底なしの貧困に陥るのだ。増税されたとしても、復興や福祉がその分増えるのではなく、どこかに消えて行く泡のように感じるからこそ、増税を「憎税」と思う感情もあっておかしくない。
 今日の聖書個所でも、税金が問題になってくる。それは誰に返すのか、皇帝か、神かという議論をしている。当時のユダヤ人はローマ帝国に支配され、そのため税金を納めざるを得なかったからだ。
 でも、問題は複雑である。帝国への税金だけでなく、ユダヤ人は神殿への税金も課せられていた。庶民は二重の税に苦しんでいた。この議論を始めた律法学者たちには、そこまで税の痛みは分からなかったようだが。
 現在、神殿税を払う人はいないが、「神のものは神に返す」ことは大切である。しかし、見える形でのお返しは人間にはできない。だからこそ、納税の義務を果たすとともに、悲しむ者が笑う者へと変えられるような働きを、私たちは心がけていきたい。神さまがご覧になって喜ぶことが、神の国の税だと思っている。