★ 2013年 1月27日(日) 「画竜『天』睛」 マタイによる福音書第5章17〜20節

   

 中国の伝説によれば、描けば今にも動き出すほどの腕を持つ画家がいた。ある時、寺の壁に龍を数体描いたが、動き出しては困ると睛(ひとみ)だけを描かずに残した。その後、睛を描いたものは天へと上っていったという話である。これが、画竜点睛の由来だそうだ。

 聖書では、イエスさまが律法を完成させると言われた。律法を与えられてから長い歴史が経ったが、まだ、あの龍のように大切な部分がないために、身動きが取れない、それが律法に従う人々の現状であった。

 律法には2つの矛盾があるようだ。それは、「ニワトリとタマゴ」のような関係である。律法と人間、どちらが先に造られたのか。答えは人間であるが、現実はどうか。まるで、律法の言いなりになる人間がそこにいる。

 律法は聖書の中だけでなく、人間が縛られるルール・習慣全てを比喩しているだろう。こうしなければ、こうなる。こうすれば、こうなる。そして、もう一つの矛盾とは、律法が定める関係にある。相手に良いことをすれば、自分も良いことを受ける。しかし、どちらから先に行うのか。

 相手が先か自分が先か。そのような関係の中で探り合うのが、律法を与えた神さまの願いだったのだろうか。その硬直した関係の中にイエスさまは現れ、完成すると言った。

 完成とは、つまり、イエスさまが最後に行った十字架のことである。そして、その十字架の死によって、罪も罰もない状態で  ある。罪も罰もない律法、、ルール、習慣、それが完成した状態なのだ。

 何の拘束もなければルールの意味がない。確かにそうだ。しかし、これまで人間が築き上げたギブ&テイクの関係は、十字架によって終わる。どちらが先なのかではなく、神さまが与えてくださったという思いから、私たちは動き出す。テイク&バック。それが律法の完成である。何よりも、天が先に与えた。その真実に目が止まるとき、人は動き出す。        


★ 2013年 1月20日(日)  「天職」 マタイによる福音書第4章18〜25節

 イエス様に声をかけられた弟子たちは、羨ましいほどにすっきりと仕事道具に、船、父親までも捨てて従ったのだ。確かに、ここだけを強調すると、神に従うこととは、その他を捨てることだとも言える。
 
 
 どれほど手放すことが出来るのか、ということも大切だが、果たしてそれだけがメッセージなのだろうか。イエス様に従っていった弟子たちも、いずれは生きて宣教を続けるために、家や仕事に戻っていくことになる。

 一つ、そのことを考える良い場面を見つけた。マタイによる福音書第8章14節以降では、ペトロの姑が熱を出したことを    聞いて、イエス様が癒される話がある。信じるとは捨てること、だけではないのである。

 このことは、私たちの日常においてもそうである。何もかも捨てて神に従うことの方が気持ち的にはすっきりしても、現実はそう割り切れないものばかりである。だからこそ、自分の家族を振り返る場面があるのだろう。

 もう一度弟子たちの行動を読み返すと、この「捨てる」と訳された言葉には、「開放する」、「置いておく」、「許す」などの意味があることを知る。つまり、それらと距離を置くことによって、神さまとの時間を作るのだ。

 芸術家として有名なミケランジェロは、傑作と言われる彫刻像ピエタに一つの失敗を作った。彼は、その見事な作品が、ほかの誰かが造ったという噂に耐え切れず、夜中に教会に忍び込んで、ピエタに名前を彫り込んだのだ。

 以後、彼はそれを反省して銘を付けることはしなかった。私たちも自分の仕事、成果、それらを捨てきれないでいるのだが、だからこそ、全ては神に与えられ、捧げるべく天職として向き合う必要があるのだろう。

 何事も捨てるように関われば価値がないように思われるが、それらに執着することも目的ではない。捨てるのでも、保つのでもなく、神の前で、 一つ一つのことに距離をおきながら、神の栄光が称えられるように励みたい。


★ 2013年 1月13日(日)  「ふさわしいこと」 マタイによる福音書第3章13〜17節
  
 

 洗礼という言葉を聞いて何を思うだろうか。世間一般では、洗礼とは初めて受ける痛い経験を意味するようだ。プロの洗礼アウェイの洗礼しかり。期待される新人ほど、新しい環境での失敗は痛手となる。

 聖書によれば、洗礼者ヨハネは悔い改めを意味する洗礼を与えていた。その場には心に何かしらの負い目を感じた人々が集まっていたことだろう。その中にイエス様がいたことはヨハネにとって驚きだった。

 罪もないのに悔い改めなど必要ない、ヨハネはそう考えたようだが、イエス様は、それも正しいこと、ふさわしいことだと言い、ヨハネから洗礼を受けられた。イエスの父ヨセフも同じく正しい人として福音書に書かれていた。父ヨセフは、婚約中にもかかわらず妊娠したマリアを受け入れたのだが、つまり、正しいとはそのように相手の痛みを受け入れることにあるようだ。

 さて、洗礼には罪を洗い清めることだけではなく、試練によって鍛えられる意味も含まれている。洗礼を受けたイエス様がその後荒野にて誘惑を受けられたのは偶然ではない。洗礼とはそのようにゴールではなく、厳しい世界を生きるスタートを意味している。

 そして、洗礼は「連帯性」をも意味している。洗礼を受けたのはイエス様だけでなく、その場には多くの罪を背負った人々が並んで
いた。フリッツ・アイヘンバーグは、「炊き出しに並ぶキリスト」という絵を残している。ニューヨークのスラムで炊き出しをする様子を見て描いたものだ。

 キリストはどこにいるのか。与える側か、受ける側か。与える側にいるように思えるが、この洗礼の場面のように、受けることしか出来ない弱さと共にいてくださる。人の痛みを受け止め、試練を受ける力を与え、そして、多くの人々とつながる洗礼を私たちも求めていきたい。


★ 2013年 1月 6日(日) 「星が見ている」 マタイによる福音書第2章1〜12節

 占いについ頼る気持ちを日本人なら理解できるだろう。現代でも、朝のテレビで天気予報と同時に今日の運勢やいが必ず書き出され、それを見た人は一日それを考えて生活するのだろうと思う。

 占いを信じる人はたいがい、運命を信じるだろう。そして、その様な人々は、多くが人生とは環境で決まっていると考えるのではないか。その星に生まれ、その環境に生まれれば成功もするし、失敗もする。

 おそらく、東方の占星術師たちもそうだったのだろう。人間は生まれた時に人生が決まっている。だからこそ、その運命を星によって占い、少しでも成功につなげるように環境を変えようとしてきた。
その点、占星術師たちの考えは確かに一理あった。実際、彼tらは贈り物に見られるように豊かになり、まさしく
星、スターのように地位も得ただろう。しかし、彼らはまだ何か足りないと感じたからこそ、その環境を捨てて星を追いかけたのだ。
 世界を救う王子、それを彼らは見た。自分たちの間違いでなければ、この貧相な馬小屋で異臭のする飼い葉桶に寝ている赤ちゃんがキリストなのだ。彼らは、驚いた。環境や運命が全てを決めるこの世界で、あまりにも悪い状況で小さな命が生まれて来たからである。

 
同時に、占星術師たちは気付き始めている。環境や運命などと言われるもので世界が回っているのではない、命を与え育てる大きな力の存在があるということを。だからこそ、彼らは持っているもの全てをそこに置いて、満足して立ち去ったのだろう。

 
これまで、星を見ながら星を追いかけてきた人生。でも、彼らは星のある天から私たちを見守る存在、神さまに気付いた。命を守る方は星のように私たちを見て助けてくださると。

  一年の計は元旦にあり。一年の歩みをキリストの輝きに導かれながら歩みたい。

                             

説教要約(1月)