説教要約(9月)


★ 9月30日 「年の功より 神の康」 箴言3章13〜20節

 富有柿と言う品種がある。1857年から育てられた一本の木が長い時を経て美味しい実を実らせ、現在の甘柿の6割はこの富有柿が原種になっているとも言われる。
  ある農家の方が言うには、若い柿の木はたくさん実を付けるが、本当に美味しい実を作るのは、古木でなければならないそうだ。あの富有柿のように長い長い時間をかけなければ、熟したものを生み出すことはできない。
  この話は柿の木だけでなく、人間にも通じることだと感じた。桃栗三年柿八年と言う諺があるが、では、人間はいくつになったら熟することになるのだろうか。若い内は、たくさんの実をならそうと努力して、また、社会も多くの成果を求めて働くのだが、果たして、本当に美味しい実を付けることはその先にあるのだろうか。
  聖書は、人間の熟した実を知恵と呼んでいる。確かにこう言う諺もある。亀の甲より、年の功。しかし、社会は変化してきた。情報化社会が新しい知識を与え、核家族が関係を裂き、シルバー人材と言う要求が果て無き労働を迫る。この社会では誰もが常に何かの役に立たなければ許されない。
  人間の知恵とは別に、聖書は知恵とは神を畏れることだと教える。恐がることではない。これは親しき仲にも礼儀ありという気持ちに近いだろう。親しきとは、近い関係だけでなく、長い関係も含まれる。
  長い関係で礼を尽くす姿は、敬老を迎える方々から私たちが学ぶ大切な知恵である。命に感謝して全てのことに礼を尽くす生き方は、年の功を超えて知らず知らずに神の与える康に感謝して生きる姿である。命に感謝して礼を尽くす先に、常に神がおられると信じている。


★ 9月23日 「三日望主」 ヨハネによる福音書10章 1〜6節

          23日は地区の交換講壇でした。湖山教会では葉先生の説教でした。    また、この説教は812日分を改変したものです。
  仮庵と呼ばれる移動式テントで一時的に生活しながら、神さまの守りを感謝するのが、仮庵祭の意義である。粗末な仮庵の中で人間の弱さ、脆さを感じながら、一層、神の守りを感謝したことであろう。
  仮庵に込められた人間的な弱さは、この世で神の国を体現する教会にも共通する。神殿を見上げたイエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ福2:19)と言われたが、その意味は深い。
  この夏に岡山にある教会へボランティアに行った。現在は無牧で礼拝は行われておらず、建物も傷みはじめている。その教会の清掃・整備を行ってきたが、その様な教会を見ていると正に仮庵のような弱さを強く感じた。
  しかし、希望がないのではない。三日で建て直してみせる、そう断言されたイエスさまの言葉に嘘はない。三日坊主という言葉があり、何事も続かない意志の弱さを意味しているが、たった三日でも神に望んで祈れば、必ず、助けが来て倒れこんだ気持ちが起き上がると励まされているように思う。
  ボランティアをした教会の正面には大きな額に「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」とあった。
  これは岡山の問題だけでなく、鳥取でも考えられる課題である。その多くが中小規模の教会が並び、仮庵のような弱さを感じながら、週ごとの礼拝を守っている。
  私たち湖山教会も天を仰ぎ神に祈りながら、同じく、助けを求める兄弟姉妹の教会を省みて、互いに励ましあい、助け合う教会本来の意味を保ちつつ会堂は弱っても、その土台である信仰を損なうことなく祈り続けたい。


★ 9月16日 「出口のないワタシ」 ヨハネによる福音書10章 1〜6節

 羊とその囲いの譬えは、現代の私たちには伝わりにくい。特に重要だと思われる「わたしは羊の門である」(7節)の意味を理解するのは、この囲いを私たちの社会で読み解く必要がある。
  2004年長崎で少年が誘拐事件は世間を動かした。瞬く間に少年への厳罰化が問題となり、2005年には少年法改正にまで発展した。その中で「改正」と言われる処置に異議を立てる方々もおられた。
 改正と言う響きとは裏腹に、少年院へ送って問題を解決しようと言う姿勢が問われた。非行少年らと関わってきた調査官、保護司、施設関係者は、人間との関わりが未発達で問題に至る子どもたちを、更に少年院に送って関係から切り離そうとする危うさに指摘していた。 
 つまり、子どもたちは社会的な囲いによって閉じ込められ、封殺されてしまう力が働いたと言える。なぜ、非行を犯したのと言う問題を見つめることなく、問題と少年を一緒にして少年院に入れてしまおうと考えが当然のように通ってしまう社会になっている。
  このような囲いによって問題にフタをする社会に対してイエス・キリストは「わたしは羊の門である」と語っている。それは、社会が囲いの中に閉じ込めようとしているのは実は羊のようにやさしい存在なのだが、環境や家庭の問題から狼のように扱われてしまっているのだと。
  そして、そのような入口のない社会の囲いに対して、イエスさまが入り口となって閉じ込められた人とその気持ちを解放し、また、社会や私たちに命の本当の価値を教えてくださると言うことなのではないだろうか。
  それは大きな社会的な囲いだけでなく、失敗や力の足りなさから、周りに壁を作って出口を失った私たちの前で、入り口に立って出ておいでと呼びかけて下さっていると思うのです。


★ 9月 9日 「永遠に至る名」 ヨハネの手紙第T5章 10〜21節 

 ヨハネの手紙を記した著者が所属していた教会にはいくつかの課題を負っていたように思われる。1つは、ユダヤ教との決別であり、もう1つは異端との戦いだった。いずれにしても、キリスト教として自立していく中で、拠り所としていたユダヤ教から脱する一方、様々な理解の中で正しいものを選ぶことは大変苦労したことであろう。
  その中で理解の不一致から教会の分裂が既に起きていたと予想される。特に4章から「愛」がテーマとして強く求められているのは、分裂の痛みを知らなければその深さは分からない。分裂を乗り越えてこの教会は愛を中心としたキリスト教に目覚めていったのである。
  この著者は手紙の中で神の掟は愛することだと考えています。しかし、分裂の経て残ったのは痛みだけだったのでしょうか。彼は「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」(53)と書いていますが、分裂を経た今、どのような愛を考えているのでしょうか。
  彼の場合、去って行った人々を愛している、と言うよりも、愛せるようになると信じている。神によってそう確信したと言うことだろう。直接的な関係が破綻したとしても、その人を思って祈る時に、神が仲を取り持って和解させて下さると信じている。
  そして、気をつけなければならないこととして「死に至る罪」と言うのがある。それは、詰る所が愛せなくなる状態なのだ。誰とも関係を失うことによって、社会的に死ぬだけでなく、心から死んでしまうことに注意したい。
  『わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成  してくださるからです。(ローマの信徒への手紙  8:26)』関係を失い、話しかけることが出来なくなったとしても、私たちには祈りが残されている。人は裂いたとしても、神がつなげると信じて。


★ 9月 2日 「命を照らすひかり」 ヨハネによる福音書8章 12〜20節

わたしは世の光である。その言葉を聞いて思い出すのは「この子らを世の光に」である。鳥取出身で障がいを持つ児童のために尽力した糸賀一雄氏の言葉である。
  その言葉をタイトルにした本がある。著者は教育心理学者で横浜市立大学教授の伊藤隆二氏で、30年以上も知的障がいを持つ児童と関わってこられた様々なエピソードを書いておられる。特に目に留まったのは「真太郎と辰男」と言う話。
  辰男はある病院の前に捨てられていた。その子どもを保護した院長は考えた末に、自分の子真太郎と一緒に育てることにした。2人の成長差はすぐに表れ、真太郎は何事にも優秀だったが、辰男は普通の子どもより遅かった。
  真太郎は頭脳明晰で院長の跡継ぎとして立派に成長するが、患者にとっては不遜に見られていた。反対に、辰男は中学校の特別学級を何とか卒業するぐらいの知能であったが、病院の手伝いを進んで行い、看護婦や患者、その家族から親しまれていた。
  ある夜、火事が起こった。原因は手術の失敗で寝酒した真太郎がストーブを蹴ったこと。多くの被害者が出たが、助かった者は口々に真っ黒い人が火の中に飛び込んで助けてくれたことを証言した。真っ黒に焼けながら患者を抱えて助けたのは辰男であり、彼は焼け落ちた病院で見つかる。
 糸賀氏は言う。「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」と。障がいを持つ存在とは与えられるだけの対象ではなく、私たちに見落としていたことに光を当てる。この辰男とイエス・キリストの姿が重なる時、十字架の上から命を照らすひかりが私たちにそそいでいる。光を輝かせない命は1つもない。神が命を造られたからである。