説教要約(8月)


★  8月26日 「砂の思いと石の裁き」 ヨハネによる福音書8章 3〜11節
 

 スキャンダルが起こった。相応しくない男女関係に至った女性がイエス様の前に連れて来られた。そもそも、スキャンダルとは何事かを隠すために使われる。今回は、イエス様を訴えるためにこの女性の罪は利用されている。死罪を裏返せば律法違反となり、死罪を認めれば、神の愛と赦しは偽りとなる。これはイエス様に対する罠なのだ。
  裁判所でもない場所で、一人の女性を前にして有罪かどうかを問うこと自体に意味はない。ただ、確定した裁きの中で、どう判断するかを見て楽しんでいるようだ。彼らは後に、相手に向けた石が自分にも向かうことを知る。
  得意げに話す律法学者たちやその取り巻きを脇に、イエス様は地面に文字を書いていました。全く話には興味がないように。そして、一言、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。
  イエス様が地面に何を書いていたか今では定かでないが、私は箴言73-5節を思い浮かべた。
   それをあなたの指に結び、心の中の板に書き記せ。
   知恵に「あなたはわたしの姉妹」と言い
   分別に「わたしの友」と呼びかけよ。
  分別とは、相手を判別するだけでなく、自分をもその尺度の含むものである。そして、石を握り締めていた人々がそうであったように、集団に埋もれて判断を鈍らせることなく、集団から常に別れて考えを持つことである。
  人の悪を見ると石のように固い裁きの思いが浮かぶ。それは砂の上に書いた文字が消えやすいように、御言葉を忘れやすいからである。だからこそ、イエス様が腰を下ろして地面に書かれた様子を思い出しながら、御言葉を思い出し、赦された恵みを思い出して、握り締めた石を捨てなければならない


★  8月19日
 奨励題 「留学を終えて」  ※内容を要約したものを記載しています。

 金充満兄  聖書:歴代誌第一 4910

 初めはアメリカに行くつもりでしたが、英語の点数が悪かったので試験のない日本を選びました。韓国では男性は軍隊で訓練します。私も行きましたが、その経験から自分は独立して何でも出来る力が必要だと思いました。それから、教会の奉仕に励み、小学生の先生やコーラスなどをしていました。
 日本では自分で独立して生きるためにバイトを頑張ろうと思い、焼肉屋さんで働きました。しかし、とてもヒマだったので私が肉を食べていました。韓国ではメディアを中心に日本人や日本に対してのイメージは良くありません。だから、とても心配して日本に来ました。
 でも、大学でもバイト先でも教会でも、出会う日本人はみんながとても親切だったので安心しました。そして、今ではとても日本が好きになりましたこれも神様が守ってくださったおかげだと思っています。日本での生活は神様に全てを任せて前に進むことを学ぶ機会になりました。
 皆さん、ありがとうございました。

 金イスル姉 聖書:コリントの信徒への手紙第一1013

 私は韓国で日本語学科を選考していましたので留学しました。韓国では主に奏楽の奉仕をして、毎週金曜の夜が担当でした。教会は千人以上が来ていて、日曜日は朝だけで三回も礼拝をします。日本に来た時はとても寂しかったです。一緒に来た同じ学校の子と仲が悪くなり、とても苦しかったですが教会で同じ学生の友人が出来たり、留学生とも出会えたりしたので楽しい思い出がたくさん出来ました。
 また、ピアノが弾けるので大学のサークルで奏楽したり、結婚式場で伴奏をしたり、韓国ではない体験もすることが出来ました。小さい頃はピアノの練習が苦でしたが、ピアノを弾ける才能を下さった神様と、習わそうと考えた両親のおかげでした。
 また、キャンプもたくさん参加することが出来て感謝でした。特にワークキャンプで古くなった教会を清掃したのは衝撃でいた。とても汚くなっていたので使えるのか不安でしたが、キレイにした後は気持ち良かったです。
 韓国でも田舎では小さな古い教会があるので、若い青年たちが同じように助けることができればいいと思いました。
 湖山教会の皆さん、仲良くしてくださって、ありがとうございました。


★  8月12日 「三日望主」 ヨハネによる福音書7章10〜18節 

 聖書の民にも収穫祭はあったが、ただ、祝うだけでなく、仮庵と言う移動式小屋を立て、神のよって今ある安住の地にたどり着いたことを記念している。仮庵は聖書の民がエジプトでの奴隷から解放されて、新しい土地を発見するまで放浪した時に使った住まいを意味している。
  神の住まいである神殿も、初めは行く先々で造る石の祭壇から、移動式の神の箱になり、最後にはそれを安置する神殿が建設されるようになった。13年をかけて神殿を建設したソロモンは、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」と語った。
 「ふさわしくありません」と言う断言は教会にも当てはまる。そう強く感じたのは、地区合同ワークキャンプとして岡山の総社教会、久世教会の清掃手伝いをした時である。2つの教会は礼拝が守られず、また、今年になって相次いで牧師が永眠されている。
  私たちの教会ですら例外ではないと、長らく人の手が入っていない教会堂を清掃しながら思った。そして、ソロモンの言葉に重なるようにイエスさまが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言ったことを思い出した。
  ヨハネによる福音書が書かれた頃には既に神殿破壊を経験して、神殿とは何かが考えられていただろう。この世界に確かなものはない、しかし、イエスさまを信じる思いがあれば、たった三日でも奇跡が起こるのだ。
  短いワークキャンプの期間だったが、清掃した会堂で歌う賛美はとても気持ち良かった。共に清掃した現地の信徒が、これから教会を建て直す決心を語った。崩れた神殿の中で希望を彼は見出したのだ。私たちが行ったからではなく、私たちの元にイエス・キリストが来られた、そして、教会になった。


★  8月 5日 「空色の気持ちで」 ヨハネによる福音書6章41〜51節

「天から下ってきた」と言う意味はどこにあるのだろう。古代、天は神の領域であり、天から下る全ての物を人は敬いつつ受け入れた。しかし、現代、天の聖域は侵され、危険な兵器が飛び回る。
 平和を考える8月を前に、オスプレイと言う空飛ぶ兵器が配備されることで報道は持ちきりだ。どこからの意図が働いているかとは別に、兵器が配備されること自身には反対であるが、賛成もまた様々な意見を立てている。
  ある者は言う。国を守ってくれる兵器だから賛成だと。ある者は言う。我々は敗戦国であり、アメリカの意志に追従するべきだ。ある者は言う。国家戦略的に意味ある配備である。戦後67年。しかし、戦後という事態が消化不良のままであると、これら賛成派の言葉に感じるのは私だけだろうか。
  67年前、空に大きなきのこ雲と黒い雨を残して戦争は終わった。そして、今また、空を脅かす兵器の配備について1つの一致した態度を示すことが出来ない。戦争の痛みを知る日本が。私たちの手にあるのは戦うと言う選択ではなく、外交によって平和を築けと言う神さまからの宣託なのだ。
  日本と同じく敗戦の歴史を歩んだドイツ。まだ、ベルリンの壁があった頃、ベルリン市制750年祭典で日本の花火が打ち上げられた。その美しさと共に語り継がれてのが、花火師の言葉だ。「ベルリンの地上に壁はありますが、空に壁はありません。日本花火はどこから見ても同じように見えます。西のお方も東のお方も、楽しんで下さい。」
  天が乱され、空が侵されても、希望は天から降ってくる。イエスさまが天から降ってきた、そう語るのは壁のない世界がどれほど素晴らしいかを伝えるためなのだ。空に壁はありません。その空色の気持ちを持って平和を作り出すこと、それが私たちの使命であり、神さまに遣わされた平和の使者、平和の道具として歩む心構えなのだと思っている。