説教要約(7月)

★ 7月29日 「たなぼた精神」 ヨハネによる福音書6章 22〜27節

  ロンドンオリンピックが開会され、政治的・民族的問題を超えて204の国と地域が参加する意義は、メダルの色、数よりも大きいだろう。聖書ではガリラヤ湖周辺に住む人々がイエスさまを探すために集まり、湖を境に利害や生活風習の違いで敵対する人々が、イエスさまを見つけると言う目的によって1つになる様は、オリンピックと重なる。
  彼らが求めていたのはメダルではなく、食物だった。以前、イエスさまが5千人にパンと魚を与えた奇跡を思い出して、働くこともせずに食事ありつこうとやってきたのである。「棚から牡丹餅」と言う言葉があるが、彼らは何もせずに得ようとする「たなぼた」精神に浸かっているのだ。
  その姿を見てイエスさまは昔、マンナと言う食べ物が神さまから与えられたことを出して、永遠の命を得る食べ物のために働くように教えている。天から降ってくるマンナを、口を開けて待っているのではなく、永遠の命を得るために「働いて」勝ち取らなければならない。
  永遠の命とは何を意味するのだろう。2008年北京オリンピックで「たなぼた勝利」と言われた男子400Mリレーでは、メダル候補のアメリカ、イギリスがバトンを落として失格となり、日本が勝ち上がった。
  日本選手はただ、何もせずに勝ったのではない。個々の能力では勝つことが出来ないが、バトンをつなぐ可能性を高めるため、一から練習し直したのである。そして、その結果が実ったが北京オリンピックだった。
  永遠とはバトンをつなぐことに近い。一人では出来ないことも、多くの人々の関わりと時代を超えた努力によって可能となる。そうであれば、私たちはより多くの人々がキリストに出会い、「たなぼた」精神から脱して自分から走り出せるよう聖書の言葉をバトンに語りついで行く働きが与えられている。神さまは、全ての人に愛というメダルを最後に用意している。


★ 7月22日 「目指す向こう岸へ」 ヨハネによる福音書6章 16〜21節

 船に乗った弟子たちは嵐に遭った。ただ強い風というよりは、生きることに抵抗するような死の力を想像してしまう。台風を思い出すと良く分かるが中心の目から離れると嵐になるように、神から離れると人は嵐によって脅かされる。
  風や嵐は神と結びつきがある。エデンの園で禁断の実を食べたアダムとエバの元に神が来た時、「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」と書かれている。 
 吹く風は涼しげだったのかもしれないが、罪を犯した人間にとって神が来たことを知らせる風は嵐のように感じただろう。恐れながら、身を隠している姿と、その心に吹きすさぶ不安の風が見てとれる。
  さて、「かくれんぼ」と言う遊びがある。古くは中国の宮廷で「迷蔵」と呼ばれ、複雑な作りの宮殿で楽しまれたものだった。特に若い男女が互いを探しあう遊びでもあり、隠れた愛を探すと言うものだったらしい。 
 エデンの園でも同じだったのではないだろうか。隠れた人間にとっては恐怖の渦中にあったとしても、神はそのような人を愛おしんで探しておられたのではないだろうか。
  船で出かけた弟子たちは、実は、山に登ったイエス様を置いて帰ろうとしていた。湖は自分たちの良く知る場所だから自分たちだけで大丈夫だと思ったのだろう。
  同じように、私たちも自分で何とか解決できると考え、目標の向こう岸まで努力するわけだが、いつの間に方角を見失い、嵐に立ち往生するのだ。どこかに神さまを置いていっていないだろうか、今、あなたの船にイエスさまは乗っているだろうか。そう、聖書に問われているように思う。


★ 7月15日 「命から命へ」 ヨハネによる福音書5章 19〜25節
 

 父と言う存在はどれほど意識することがあるだろうか。先日、結婚式の司式を執り行ったが、父よりも母の方が何かと話題になるのは、育児の課題を含めて仕方のないことなのかもしれない。
  父子関係はブラックボックスのようである。朝早く仕事に出かけ、夜遅く帰ってくる父と、安全な生活がどう結びついているかを、子が理解すること自体難しい。父の苦労を知るのは、大人になってからなのかもしれない。
  河合隼雄氏の著書に「母性社会日本の病理」と言うものがある。簡単に説明すると、「わが子はみな可愛い」と言う母性的原理で動く日本社会では、能力や個性が廃して平等を重んじる一方、個々の成長を妨げている問題を指摘している。個々を見分ける父性的原理も必要なのだ。
  教会の中での父性的原理とは、信じる気持ちによって私たちが一人ひとり神様と出会い、救われると言うことだろう。99匹の羊を差し置いても、1匹の悔改めを心に留められるのが、父なる神さまなのだ。 
 19節には「子は父のなさることを見なければ、自分からは何事も出来ない」とある。「何事も」と言うのは行動全般と言うことではなく、恐らく、父なる神、創造主らしい、命を与えると言う働きに関わるものだろう。
  冒頭で紹介した結婚式でのこと。新婦とその父親か寄り添って入場してくるのだが、正面前方には新郎が待っている。そして、新郎と父親は握手したまま、その手で新婦の手を新郎に任せると言う所作があった。
  「父のなさること」とはそのようにして、手と手を合わせ、自分の側から大切なものを送り出しながら、新しい家庭と言う命を生み出す力を与えるものなのだと思う。私たちは、救われた命の代りに何を差し出すことが出来るだろう。「求める命」から「与える命」へ。それが父なる神の願いなのだ。


★ 7月 8日 「きみをよんでいる」 サムエル記上3章 1〜10節  花の日・こどもの日合同礼拝

  祈りは神さまとのコミュニケーションだと言いますが、私たちが何か問題を抱えて祈ろうとする前から、神さまの呼びかけは私たちに向けられているのです。その呼び掛けに気付くことが難しい理由は、私たちの側に問題があるからです。
  サムエルの話を聞きながら、非常に単純で、しかし、重大な問題を見つけました。なぜ、祭司エリに対して神の言葉が語られなかったのでしょうか。なぜ、神殿の中で祭司には聞こえず、1人の少年に神の言葉が届いたのでしょうか。 
 祭司エリに神の声が聞こえなかったのには理由がありました。サムエルに語られた神の言葉にあるように、エリの息子たちはかなり悪かったようです祭司の跡継ぎと言う立場を利用して、身勝手なことばかりしていたのです。 
 ですから、祭司エリはそのことで頭を悩ましていたのでしょう。もしかしたら、夜も眠れずサムエルがやってきた時も起きていたのかもしれません。祭司エリの頭は様々な悩み事ばかりで神さまの声を受ける余裕がなかったのです。
  イギリスの言語療法士サリー・ウォード氏は子どもの成長に「語りかけ」が大切であることを教えています。それは、まず、「聞く」力を養うために母と子が静かな場所で2人きりになる時間が必要だからです。
  私たちもサムエルのように神さまの声に従うには、まず、様々な思いを取り除いて、聴く姿勢を整えましょう。エリのように心配事ばかりでは、せっかくの呼び声も内側に届いてきません。
 神さまは、きみをよんでいる。私たちが気付く前から神さまは私たちに向かって呼びかけて下さっています。

 

★ 7月 1日 「過去を刈り、未来を蒔く」 ヨハネによる福音書4章 31〜38節

 過ちは去っていく、過去とはそういう意味である。しかし、数多くの失敗が積み重ねなければ、今の社会も生活も私もない。誰かが先に入り込まなければ、そこに道はできていかない。
  今日の聖書箇所はサマリア人への宣教を考えている。サマリア人は混血が進み、民族意識の高い聖書の民ユダヤ人から嫌われていた。しかし、キリストの愛はその壁を越えて、神を信じる人々が増えつつあったようだ。
  福音書の著者ヨハネの教会はサマリア人へ宣教していたが、その功績を誇ることなく、『一人は種を蒔き、別の人がそれを刈り取る』と、過去の功労者の働きによって今の教会がある、と謙遜を教えている。
 この言葉、古くは諺として、自分の労苦による報酬を得ることは出来ないと言う、人生の空しさを憂えたものだった。教会ではそれを、人間の命の儚さとともに、神の恵みが一人の人生を超えて次の人へと受け継がれる喜びとして受け取り直した。長い時間の流れを神の視点から見たのだ。
  最も、このサマリア人に伝道したのはフィリポだった。彼は、イエスの直弟子ではなかったが、ギリシャ人として、長年争ってきたユダヤ人とサマリア人との間で神の言葉を語り、和解を語ってきたのだろう。
  湖山教会にもそのような先生がおられた。1955年にアメリカから宣教師として来られたエルダー師は鳥取東部の宣教だけでなく、本土と沖縄のキリスト教団の間で和解のために尽力された。
  日本のためにわずか29歳で来日、他国のために尽力できる人は少ないだろう。エルダー師以外にも多くの先生方、教会員、協力者の苦労によって今の私たちがある。その労苦を刈取り、学ぶ時に、自分では刈り取ることの出来ない労苦であっても、喜んで自分の全てを蒔くのだ。そうありたい。