説教要約(5月)


★ 5月27日 「愛言葉」 ヨハネによる福音書14章 21〜27節

 その昔、「日本書紀」には、合戦時に敵味方を判別するために一人の武将が思い付いたと記されている。その最初の合言葉は、「金(かね)」の一言で、互いに同じ答えかを確認した。
 今年の4月、「第25回サラリーマン川柳コンクール」の第1に選ばれたのは、「”宝くじ 当たれば辞める”が 合言葉」だった。今も昔も、そして、日本だけでなく世界の合言葉が「金」になってしまった。その「金」を「愛」に変えるべく、聖書から私たちに必要なものを学びたい。
 さて、聖書は私たちに必要なものは金ではなく、聖霊であると言う。その聖霊とは、                                                         1.ともにいる存在 2.助ける存在 3.慰める存在 である。見えないけれど共にいて見守り、助けてくれる神さまの力なのだ。
 ある新聞記事から聖霊の働きについて考えよう。精神科医 森下一氏は、著書『不登校児が教えてくれたもの』に、次のエピソードを記載している。7年間引きこもりを続けている 強君。森下先生の治療は一進一退だったが、ある時非常に危険な状況であると、森下先生は両親に注意していた。その矢先、強君は、ガソリンを被って自殺を図ろうとする。それを発見した父親は、後ろからしがみつき、「火をつけろっ、強っ!」と叫んだ。後に、強君は、共に死ぬ覚悟を持った父親の愛情に、生きる自信を取り戻したと告白している。
 死の覚悟を持って愛する。それは、この父親だけではない。まさに十字架でイエスさまが見せたものだ。そして今も、聖霊という見えない姿になって見守り、何かあれば私たちを後ろから抱き寄せて、慰めの言葉を、励ましの言葉をかけてくださる。
 聖霊とは、生きる人の応援団。だからこそ、自分に火をつけるような、消し去りたいようなことがあっても、生きなければならない。なぜなら、神さまは私たちに、「生きてていいよ」と、『愛』言葉を常に送っておられるからだ。


★ 5月20日 「名水 神の河」 ヨハネによる福音書7章 32〜39節

 鹿児島県枕崎の白沢には、神の水と言われる湧水があり、それを使って作られたのが、薩摩酒造が誇る「名水 神の河(かんのこ)」である。
 個人的に、「神の河」には思い出がある。学生の頃、宿泊付きの研修に何度か参加した。午前・午後は熱心な発表と質疑の時間を過ごすが、夜もまた、熱心に飲みながら語り合う。ある先輩は、キリスト教に懐疑的であったが、疑いつつも神学に向かう姿を見て、偶然彼が「神の河」を飲んでいた。そのことから、誰かが、「神の河で溺れている」と評したのは面白かった。
 聖書は、私たちに「どこへ行くのか」というテーマを投げかけている。イエスさまは父のもとに帰ることを宣言しているが、では、私たちの生きる先には何があるのか。がむしゃらに進むことは、まさに溺れることに等しい。
 水に例えられているのは神の恵みであるが、神の恵みが水となって与えられ、更には川となって溢れ出すとは何を意味するのだろう。小説「深い川」を著作した遠藤周作氏の声に耳を傾けたい。
 遠藤氏は、インドのガンジス川に注目して、川が、汚い生活用水も、死者の灰も全て受け入れて流れる様子から、まるで神の愛であると考えている。川の深みとは、私たちの罪悪の深さであり、同時に赦す神の愛の深さなのだ。
 さて、私たちは洗礼を行うが、それは私たちの全身が神に受け入れられていることである。水の深さは神さまの懐でもある。そうして、自分の全てが受け入れられていることを知るのは、生きるために必要なことなのだ。
 そして、川の先は広がっている。つまり、この安心をより多くの人々と分かち合うことこそ、聖書の目的である。その人の中で、神の恵み、水が川となり、さらに広がって川幅が広がり、喜びの幅も広がる。私たちは、神と人を楽しく喜ばせる「神の河」となりうるのだ。


★ 5月13日 「ふたりきり」 ヨハネによる福音書16章 25〜33節

 ロンドンオリンピックがいよいよ近づいている。各競技で選考が進められているが、勝者への道は厳しい。勝利は喜ばしいものとは限らない。勝利の裏にある光と影とは孤独である。勝利とは独戦独勝ではないだろうか。
 勝利が孤独を生み出すのではなく、勝利に至る苦悩が孤独を生み出す。トルストイの『アンナカレーニナ』には、「幸福な家庭というのはどれも皆似たり寄ったりだが不幸な家庭はそれぞれに不幸である。」とあるが、苦悩や痛みは人を分断し、孤独であるような錯覚を生み出す。
 橋本龍太郎首相もまた、孤独に悩むひとであった。国家の最高責任者である立場は、より深い孤独の影を心に落とす。まだ、就任中だった頃は、しばしば母を訪ねて病院に見舞いに行っていたようである。誰にも相談できず、弱音を吐けない彼を、母はどう受け入れたのだろうか。
 本日は母の日を迎えているが、人は母の胎内から取り出され、二人から一人になる。孤独との戦いが始まる。また、母の胎内に戻ることは不可能であり、安心を求めて「見えないへその緒」を手繰り寄せようとするのだろう。
 そうして、人間はチグハグな行動に出る。安心を求めようと戦い、勝ち上がってさらに孤独を内に溜め込むのである。聖書はその人間に向けて、神と結ばれることを語る。祈りと学びによってつながることを。
 イエスさまが語る勝利とは、人間の考えるものとは別である。勝つとは、敵が消えることではなく、味方を得ることなのだ。父なる神という、常に私たちの側に立って支える大きな存在を。
 本当の勝利とは、孤独に勝つことであり、それは簡単なことではないが、始めることは難しくない。祈るとき、あなたはひとりではない。聖書を読む時、あなたの側で神は見守っている。信仰の最小単位はふたりきりなのだ。


★ 5月6日 「真理の霊」 ヨハネによる福音書15章 18〜27節

 「真理」は、最近では人気のないことばになってしまった。それは、言葉の持つ固さか、または、それを求める態度自体が時代遅れになってしまったのか。いずれにせよ、価値観であふれる社会で真理を問うのは難しい。
 聖書の中では、切実な状況の中で真理を求めている。当時のユダヤ人たちは、第一ユダヤ戦争に置いて神殿が破壊され、自民族のアイデンティティを失ってしまった。私とは誰か。それを明らかにするのが真理だと考えた。
 イエスさまを信じる人々は、ユダヤ人グループから追い出され、世間の憎しみにさらされながらも、神に愛されているという真理を堅持して彼ら自身は憎しみに染まらなかった。
 聖書は、キリスト者が様々な部分で迫害を受けるのは、世に憎まれているからだと書いている。では、神を信じて神の国に入る約束を得ている私たちと、この世との関係はどのように説明できるだろうか。
 最初の型は、〈私たちは世から完全に切り離された聖なる存在である〉という理解である。これは理想論であり、教会が何か社会から浮遊した存在になる可能性がある。
 二つ目の型は、〈私たちは世の一部であり、不信仰や誤りからも自由でない〉という理解である。この考え方は私たちが社会や制度によって守られ、また、制限されていること、影響を受けていることを述べている。
 そして、三つ目の型は、〈私たちは世の一部であるが、聖別されている。イエスを欠いているという意味で自らの中心に空洞を持ち、それゆえに真理の霊の到来を待っている〉というもの。
 私たちが失った私らしさの空虚に何を補うのか。憎シミか、それとも、真理を伝える霊か。生きるために必要なものを神に祈り願っていこう。