説教要約(4月)

★ 4月29日 「逢・哀・愛」 ヨハネによる福音書21章15〜19節


 三度も同じことを聞かれたら、認知症を疑えと言われたことがあるが、キリストは何かを忘れてしまったのではなく、三度繰り返して確認を行っている。それは、「愛」という見えないものを確かめるために。

 イエスさまと弟子ペトロが三度繰り返した会話の中で、「愛」という言葉が使い分けられている。元のギリシャ語では、イエスさまがアガペー(神の愛)を尋ねているがそれにペトロはフィレオー(友情)で返事をしている。

 ペトロは復活のイエスさまに愛を誓えない。なぜなら、彼は身の危険から三度もイエスさまを知らないと公言したからである。だからこそ、彼は自分がアガペーを語るのに相応しい者ではないと自覚している。

 さて、アガペーとフィレオーが食い違う会話の中で、最後に譲ったのはどちらだったか。それはイエスさまだった。最後にフィレオーの愛でよいから「私を愛しているか」とペトロの気持ちに寄り添っている。

 ひとである私たちが神の愛を実行することは難しいことだ。私たちは同時に二つ以上のものを愛することはできないし、敵を愛することも簡単ではない。でも、そこから始めようとイエスさまは赦してくださる。

 ただ、神の愛を諦めたのではない。同時に「私の羊を飼いなさい」という命令が出されており、愛の実行が求められている。羊を飼うのは牧会をする牧師だけでなく全員が互いに配慮することなのである。

 イエスさまと出逢い、イエスさまを裏切って悲哀にくれたペトロだが、最後には逆さ十字架の刑へと命を投げ打って愛を貫いた。小さな愛からでもいいのだ。それを大きな愛へと神さまが変えてくださるから。

★ 4月22日 「永遠のカタチ」 ペトロの手紙T 1章13〜25節
 

 荒野が広がるパレスチナにも春派来る。荒野に花が咲くとは信じがたいが、数度の雨に恵まれると芽が出て育ち、花開く。しかし、4月に裂いたかと思うと、5,6月には散ってしまう。強い熱風(シロッコ)が来るからだ。
 「草は枯れ、花は散る。」人の目に映るのは植物だけでなく、人間の姿をも浮かび上がらせる。日本古来のイロハ歌では、「色は匂えど、散りぬるを・・・」と歌っている。花の香が漂ったかと思えば、あっという間に散ってしまい、香りだけがその場に残る。そう儚く感じるのは人類共通のようである。
 色とりどりの花びらは、権力や金銭、生まれながらの環境、能力を指しているのかもしれない。誇らしく花開いたとしても、わずかな期間でしかなく、散ってしまうのだ。先ほどのイロハ歌はこう続く。「我が世たれぞ 常ならむ。」我が人生と思っていても、安泰はないのだ。
 草木が強い風によって散る。その意味は。「風」とは「聖霊」を同時に意味する。そうであれば、神の霊によって、私たちは自分を着飾る誇りが全て吹き飛ばされ、自分が無であることに気付かされる。
 ある教会員の話だが、その方は半身不随を患って、ご主人に支えながら生活をしている。いつも私が訪問に行くと、「先生、何もできなくてすみません。」と何度も謝るのだ。そして、聖書と讃美歌に生かされる日々を送っておられる。論語の「三従の女人」は、父に従い、夫に従い、子に従う人生訓を教えているが、その教会員の姿には、最後に一つ、何もできなくなった時に、キリストに従うことが残されていると気付かされた。
 私たちに与えられているのは、神に従うという永遠の関係であり、我が誇りを失おうとも、人間関係に変化があろうとも、十字架に従うことに変わりはないのだ。

★ 4月15日 「帰還者トマス」 ヨハネによる福音書 20章19〜30節

 「機関車トーマス」は子どもたちに長く愛されてきたテレビシリーズだが、その原作はイギリスの牧師ウィルバート・オードリーが書いている。息子が病気の時に、ベッドで退屈しのぎに物語ったのが始まりである。初めに絵本になった「3台の機関車」は、絵師のミスで名前のない機関車が2台できてしまった。その2台は次から登場することはなかったが、その代わりに、トーマスが出てくるのだ。
 ここからは推理だが、オードリー師は、予想外の2台をディディモと呼ばれるトマスに重ねたのでは。ディディモとは双子、2つセットの意味を持つが、2台が取り消されて新しい1台に生まれ変わったこととつながって見える。
 聖書のトマスは復活を否定した。それにも増して、彼の内には寂しさを訴える響きが聞こえる。イエスさまの弟子は半分が兄弟だが、トマスだけは一人ぼっちだった。そこには当時の社会的背景があるだろう。
 双子を吉とした民族もいたが、古くは多くの民族が不吉の兆候と考えた。獣のように一度に子どもを複数産むことも忌み嫌われただろうし、実際の経済的負担も想像ができる。トマスの兄弟は間引きされたのかもしれない。
 復活のイエスさまに会えなかった孤独。それは双子の片割れとして一人生き残った寂しさに通じる。頑固にも復活を信じない彼を、「疑い深い」と評することもあるが、疑いを意味する「ダウト」とは、「2つの心をもつ」という語源からきている。
 彼は死後の世界も信じなかった。それは、あの兄弟をおいて一人では天国に行けないと思ったからだろう。だから、格好の良い死を選んでいた。兄弟に恥じない死を。
 復活などあり得ないという心と、復活を信じたい心の間で迷う。もし、復活のイエスさまを信じることができれば、あの兄弟にも会えるという希望。そして、1つを選んだ。そう、みんなが帰れる場所、天国があれば、あの兄弟にも会える。キリストの十字架はそのためにあったのだと。

★ 4月 8日 「思い出してごらん」 ヨハネによる福音書20章 1〜10節

 「い〜つのことだか〜、おもいだしてご〜らん♪」
 幼稚園・保育園の卒園式では親しまれるようになった童話「思い出のアルバム」。「さよなら」よりも「おもいだしてごらん、いつでも会えるよ」の方が、新しい門出を迎える子供たちには力になるだろう。
 さて、聖書では、死別を前に戸惑う人々が出てくる。なぜなら、十字架で死んだイエスの遺体が墓になかったからである。それを発見したマリアと、確認しに行ったペトロともう一人の弟子たちは事態を理解できなかった。 
 あるはずのものがない墓、空っぽの墓。それはただ、弟子たちが「目撃」あしたことだけでなく、「体験」したことなのだ。大切なイエスを失った墓と表現されているのは、弟子たちの心の様子でもあるからだ。
 死によって失われた命、別れによって会えない人。その寂しさは、まさに中身を失った墓のようである。失った悲しみを背負う人の影はより色濃く、その精神は異臭が立ち込める墓穴のごとく不健康になる。
 だからこそ、キリストは生前に言葉を残された。「思い出してごらん」と言わんばかりに。聖書は命を与える言葉をロゴス(ギリシャ語で『言葉』)と言う。イエス自身がロゴスとも言う。その生きた言葉が私たちに必要なのだ。
 ロゴスは身近にあって具体的で、「イエスは〇〇である」と表現できる。例えば、あなたが大工であるならば、「イエスはハシゴである」。私を支え。高い高い天へと連れて行って下さる、と。
 復活とは、元の状態に戻ることではなく、より良いものに作り変えられること。イエス・キリストの犠牲によって、その命が私たちに分け与えられている。私たちの内には、私たちを新しくするロゴスがある。それを聖書は気付くように教え、人生の節目ごとに「思い出してごらん」と語りかける。

★ 4月 1日 「凱旋」 ヨハネによる福音書12章 12〜16節

 4月1日にエイプリルフールを真剣にするのは、もう時代遅れだろうか。
 イエスさまを「ホサナ(主よ、救いたまえ)」と歓喜しつつエルサレムで迎えた群衆は、その数日後にはイエスさまを「十字架につけろ」と叫ぶことになる。同じ口から発せられた言葉である。その豹変ぶりに、あの日のエルサレム凱旋はエイプリルフールだったのかと思うほどに。
 死者ラザロを生き返らせたことで有名になったイエスさまを、群衆はナツメヤシの葉を持って歓迎した。このナツメヤシには歴史的な意味がある。紀元前2世紀頃、ユダヤ人はシリア国によって支配され、ギリシャ宗教を強要されていた。神殿に偶像が置かれ、聖書の言葉を行うことが一切禁じられた。
 このシリアから神殿を取り戻した指導者マカバイオスを、エルサレムで迎えたのが、ナツメヤシを持った群衆であった。そして、群衆はイエスさまに対してこの時にユダヤ人を支配したローマ帝国からの解放を願ったのである。
 「イスラエルの王」。群衆がイエスさまに付けた名の響きは良い。だが、それは自分たちのために誰か犠牲になる人を祭り上げる便利な言葉なのだ。群衆は弱さの象徴であるが、何よりも集団の中で自覚を失う弱さなのだ。
 イエスさまはその願いに応えたのではない。なぜなら、軍馬ではなくロバの子に乗られて凱旋されたからである。これはメッセージなのだ。戦闘によっては平和も自由も手に入れることができない。
 榎本保郎牧師は言う。「同じウマ科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそ桁違いに愚鈍で見栄えのしない『ちいロバ』にひとしお共感を覚えるのです。」『ちいロバ』とは小さいロバのこと。神は群衆の中にいて自分を隠す人ではなく、弱くても自分の戦いから逃げない人を味方する。本当の凱旋とは、勇気を持って神さまを自分の心に迎え入れることなのだ。