説教要約(12月)


★12月30日 「小さな王様」 マタイによる福音書 2章13〜20節 

 ミカ書にはこうある。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」その預言に恐れを抱いたのはヘロデ王であった。
  東方から来た占星術師たちの話と聖書の言葉からヘロデは新しい王が生まれたことを知り、自分の一族が王家から外されることを恐れたのだ。だから彼は該当する幼児をみな、殺害することを平気で命令した。
  しかし、不思議なことに幼子イエスは助かった。父ヨセフが夢で天使からエジプトに逃げるようにと教えられたと言うのだ。エジプトはイスラエルの民が長年苦労して奴隷生活をしていた場所であり、また、父ヨセフとは別人で、旧約聖書には夢を解くヨセフと言う人物もエジプトに行っていた。
  その昔、エジプトの王も同じく幼児殺害を命令した。増え過ぎる奴隷の人口を恐れたからだ。そのように、どの時代でも王という存在は恐れを抱いて生きている。頂点に立つ風景とは、そこから落ちる不安しかない。
  さらに、聖書にはこんな王もいた。ネブカドネツァル王は大きな国バビロンを治めていたが、彼も夢や幻を見ては恐れていた。彼が見た幻は壁に指が現れて、「メネ(計る)、メネ、テケル(不足)、パルシン(裂く)」と書いたと言う。
  どの時代の王でも不安と恐れの中で生きている。つまり、どの人間にも不安があると言うことを教えている。この一年を振り返り、自分の行いを「計る」けれど、「不足」ばかりであった、その自分が「裂かれ」ないだろうかと言う不安なんだ。
  だからこそ、幼子イエスを受け入れ、その信仰を守ろうとするヨセフのようでありたい。あの王様たちのように、自分のことばかり考えるのは小さな王様であり、イエス・キリストという小さな王を受け入れ、自分が王様のようにならないよう、一年を反省して振り返りたい。


★12月23日 「正家族から聖家族へ」 マタイによる福音書1章 18〜23節

 クリスマスと言えば、プレゼント。それは間違いではないが、正解でもない。命が与えられて家族となる、それがクリスマスの本当の意味である。人数が増えるだけでなく、それぞれが助け合う関係である。
  家族とは何を意味するのだろう。以前に「ホームレス中学生」と言う本が流行した。中学2年生で父親が家族の「解散!」を宣言して、兄弟が何とか苦労して生きるサクセスストーリーだが、家族とはそのような脆さを持つ。
  世間ではもうかなり前から「家族」と言う形が崩壊している。つまり、何が正しい家族なのかが分からなくなっている。紙面上の関係以上に、家族を強く結びつけるものが今、見当たらないのではないだろうか。
  2011年に「今年の漢字」として選ばれたのは「絆」だった。東日本大震災を通して助け合うことを意味しているが、そもそも、その絆と言う言葉を前面に出して活動された方がいる。北九州で路上生活者を救援する働きをしている奥田知志牧師である。
  奥田先生は、絆と言う言葉の意味が弱まっていると警告する。タイガーマスク現象を挙げて、恵まれない子どもたちにランドセルを送る行為は感動するかもしれないが、顔と顔を合わせて向き合う苦労はそこにない。
  路上生活者への支援は簡単ではない。弁当を渡せば、怒って投げ返す人もいる。優しさは理解されるまで時間がかかる。何度もぶつかりながら、受け入れられるまで互いに痛みを我慢する。奥田先生は、だから、絆(きずな)には「きず」が必要なのだと語る。
  痛みを共にしてこそ、つながる。路上生活者が失ったのはハウスだけでなく、ホームと言うつながりなのだ。だからこそ、私たちは、家族と言うものを見直す必要がある。痛みを背負い合う聖家族となるために。

 

★12月16日 「預言者と代言者」 マタイによる福音書11章 2〜10節 

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」洗礼者ヨハネは牢獄の中から弟子を遣わしてそう尋ねた。処刑を待つヨハネに、「別の方」を待つ時間はそれほどない。
  ヨハネがイエスさまの正体を疑ったと言うのではなく、彼の思い描いていた救い主のイメージに思い違いがあった。先にヨハネは救い主がやってきて「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と預言していた。
  ヨハネの待っていたのは裁き主だった。鋭い視点から善悪を判断し、善は助けられ、小さな罪でも明らかにして罰する。火で焼き払われるように悪を根絶することを願っている。
  しかし、イエス・キリストの救いとは、捨てられるような貧しい人々が助けられて倉(神の国)に入れられる様子であり、裁き主ではない姿を聞いたヨハネは戸惑っていた。でも、これもまた、救い主の姿でもある。
  ユダヤ教の中ではその歴史において裁き主として来る救世主が希望されていたが、もう一方では、受難の僕として罪のために命を捧げる救世主も希望されていた。ヨハネはそれに気付き始めている。
  ヨハネは預言者として、神の裁きを語ってきた。人間の罪を彼はしっかりと理解していたからである。しかし、神は罪に対して裁きだけではない、もう1つの方法を考えておられた。それが十字架による赦しだった。
  この時に、罪に対する考え方が変わる新しい時代に入ったのだ。その新しい時代を語るものとしてキリストが立っている。ヨハネは牢獄の中にいるが罪は裁かれなければならないと言う考えの檻に入っている。だからこそ、十字架を鍵にして赦しの時代へ入る必要がある。待つとはその変化なのだ。

 

★12月 9日 「奇跡の源はどこに」 マタイによる福音書13章 53〜58節

「ふるさと」。その響きの中に何を感じるだろう。鳥取では代表的な歌「故郷」に出てくるような思い出深い記憶。しかし、それだけではない。「ふるさとは遠きにありて思うもの」、哀愁とは言い難い距離感がここにある。
  そう歌ったのは金沢出身の詩人室生犀星(むろうさいせい)だ。彼の生い立ちは壮絶そのもの。父と愛人ハツとの間にできた、生まれてはいけない子だった。彼はすぐ、他の家に引き取られて育てられる。
  そんな彼にとって故郷とは良い場所ではないだろう。父親のいない家庭、母ではない人に育てられ、一度は夢見て東京に出たものの失敗して戻ってきた。その格好の悪さと居場所のなさから、東京にいた時に懐かしんだ故郷の方が気持ちとしては良かったのだろう。
  室生犀星の思いと、ガリラヤのナザレで拒否を受けたイエスさまの気持ちは少し似ている。イエスさまも、他の福音書ではマリアの息子と呼ばれ、父がいない、または分からない子どもとして世間からは見られた。
  どのように素晴らしい奇跡を行い、感動するような話しを聞いても、ナザレの人は自分たちの町から救い主など現れることはないと期待していなかった。ガリラヤ(「辺境」の意)に住み、救いからはみ出た存在として信じる力を失っていた。ここではない、どこかなら救いもあるだろうと。
  その様な人々の気持ちをよく表現したのがカール・ブッセの詩だろう。
 「山のあなたの空遠く 幸(さいわい)住むと人のいふ 噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみ かへりきぬ 山のあなたになほ遠   く 幸住むと人のいふ」上田敏訳
 しかし、イエスさまは言います。「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」私たちが奇跡が起こると信じ、求め、そして、祈ることができるのは神の国にいることを確信するからなのだろう。

 

★12月 2日 「驚きと戸惑いのアドベント」 マタイによる福音書24章 36〜44節 

 アドベントとは、こちらに向かって来ると言う意味で「到来」と訳される。何がか?それはキリスト。クリスマスはイエス・キリストの誕生日であり、新しい命がこちらに向かって来る。そして、誕生は驚きと戸惑いのドラマを人間に与える。 
 しかし、クリスマスの本当の意味は誕生だけにあるのではない。誕生の正反対にある死をもテーマにしている。この幼子イエスが成長して奇跡と悔い改めの伝道をし、十字架で死して三日目に復活する、その出発点だから。
  その喜ばしいクリスマスが、盗人のように突然やってくると聖書は教えている。なぜ、盗人のようになのだろうか。ある童話から考えてみたい。
  ある時、悪魔の頭領サタンが人間を誘惑する計画を弟子たちに考えさせた。第一の弟子はサタンに「私は人間に神はいないと伝えます」と話し、第二の弟子は「私は地獄はないと言うつもりです」と話した。
  しかし、サタンは、そんなことでだまされない、人間は罪に対して罰があり、神が裁くことを知っていると言う。その後、第三の弟子は「私は急ぐ必要はないと言いましょう」と提案した。すると、サタンはその弟子に「行きなさい。お前はたくさんの人たちを堕落させることができるだろう」と命じた。
  この童話は、私たちが安心だと思っている時が最も危険な状態だと教えている。神はいる、地獄もある、でも、それはまだ先のことだから。自分の罪を知りながら、その結果が分かっていながらも、まだ大丈夫、まだ関係ないという立場こそ、生きることから目を背けることになる。
  キリストの誕生とその十字架での死は、聖夜を彩る光と闇。そして、それはこの世界にも通じることであり、この世界の始まりがあれば、終わりもまたやって来る。終るとは、無に帰するのではなく、完成。私たちの命が完成されるには、キリストを幼子のように受け入れる必要がある。私たちの心は飼い葉桶の汚いかもしれないが、そこに宿ってくださると信じている。