説教要約(11月)

★11月25日 「神の御胸で眠る君に」 テサロニケの信徒への手紙T 4章 13〜18節

 テサロニケの人々にとっての問題は、「主が来られる日まで生き残る者」と「眠りについた者」との違いだった。当時、教会ではすぐにでも復活したキリストが現れて、この世界が終わって神の国がやってくると信じていた。しかし、その待つ間に仲間が次々と亡くなっていく姿を見て不安に思ったのだ。
 彼らの不安はただ、死者がどこにいくのか、というような疑問だけでなく、段々と減っていく教会の中で、自分たちが残されてしまったかのような一抹の寂しさもあったのかもしれない。先に世を去った友らが安らかに眠る場所に憧れることもあったのかもしれない。 
 映画『八日目の蝉』を見た。一般的な評価では母の愛を描いたものと言われている。堕胎して子どもを産めなくなった女性が、不倫相手の子どもを誘拐して育てるという事件から始まる。さて、誘拐された側の子どもは家庭に戻ってからも、長い期間に、しかも生まれてすぐだったために、母から愛情を受けられずに育ち、その彼女も最後には母になるのだが。
 このタイトルの「八日目の蝉」とは、蝉は一週間の命だと言われる一般論をもとに、その後を生き延びてしまった一匹の蝉を例えている。映画の中では「普通は一週間で死ぬのに八日目まで生き残ってしまった蝉はさみしい」と登場人物に言わせている。
  まさに、召天者を記念して今ここに集まるのは「八日目」を生き残った一人ひとりの集まりではないだろうか。家族と言う集団から、友人と言う枠から生き残り、そして、孤独を感じながら、時期はずれの蝉のように鳴いているように感じる。
  しかし、聖書はそのような不安と孤独を感じる私たちに、先にこの世を去った人々が「眠っている」と語る。それは死をごまかしているのでも、ドラマチックに語るのでもない。再び、起き上がる、復活と言う希望を持っている言葉なのだ。
  映画ではこうも言われていた。「といっても、八日目まで生き残った蝉は、きっと普通の蝉が見られなかった世界が見えた。」私たちは八日目の朝に目覚めながら、新しい世界から神の素晴らしい計画を見ることが生きて赦されている。そして、それをまた、先に行った人々に語り伝える使命が与えられている。希望と、命と、再会が神の手から。


★11月18日 「神の子、げんきのこ」 マタイによる福音書5章 3〜10節

 聖書には幸いと呼ばれる人たちのことが書いています。その中で、9節には「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」とあります。子どもたちが神の子として生きることを願ってお話しします。
  ここ最近ですが、かわいいキノコの歌を子ども園の礼拝で知りました。作詞はまど・みちおさん。こんな歌詞です。
 き    きのこ      きのこ
 ノコノコ ノコノコ あるいたり しない
      きのこ      きのこ
  ノコノコ あるいたり しないけど
   ぎんの あめあめ ふったらば
  せいが のびてく るるるる るるるる
  いきてる いきてる いきてる いきてる
  きのこは いきてるんだね
  当然、キノコは動いたりしないので生きるのかよく分からない。でも、少しずつ、大きくなっている小さな変化に気付けば、そのキノコが生きてることに感動する。素朴ですが、小さな命を発見する目がここにあります。
  平和というものは命の大きさによって変わってきます。強いものだけの平和、人間だけの平和。そこに小さな生き物たちは入っていないのかもしれません。でも、本当の平和は、小さな命をも包み込む大きな心が作り出すものです。
  キノコが大きく成長して傘を広げていくように、子どもたちも心を大きく成長させながら、その心の傘の中に小さな命を守れる神の子、平和の子となるようにお祈りいたします。


★11月11日 「焼き尽くす熱意」 マタイによる福音書3章 7〜12節

 私たちの周りにはいないだろうか。何事にも怒りをあらわにするする人。怒らなくても良い場面で必ずまくし立てる人。集団において、確かにその様な人も一定の役割があるとは思うのだが、時に悩ましくも感じる。
  最後の預言者として描かれた洗礼者ヨハネの言葉から、私は彼も「瞬間湯沸し機」のような人だったのではと想像してしまう。聖書の人物にそのような評価は、正しくないと批判もありそうだが、福音を語るには語気が強い。
  神の怒りを代弁するような激しい言葉は、1つ1つの重さを持っているが、その中でも斧が木の根元に置かれているとの言い回しは恐れを抱かずにはおれない。役に立たずば切り捨てる、それは神の御旨だろうか。
  教育の現場で学んだことだが、「二重否定」と言うものがある。「○○ができないと、××になれないよ」と言う教育の仕方である。これは、子どもの成長を阻害する問題を持っていると言う。
  つい、何かが出来ないと使ってしまいそうな誘惑の言葉だが、二重否定では人間は成長しない。良い実をつけなければ、立派な木になれないよと言うことが斧の意味でないだろう。もしかすれば、剪定も考慮できる。 
 再三、ヨハネは神の怒りを火に例えて、燃えつくされる恐怖を語っているが、それはヨハネがそう見えたのであって、神の思いが燃えつくすことではないのは、キリストの十字架によって明らかになった。
  キリストによって明らかになったのは次の預言の言葉である。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イエスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良いだろうか。」エゼキエル書311
 ここにあるのは、怒りではなく、愛と言う熱意が込められている。ヨハネはその外側を語り、キリストはその内側を語っているのだ。

★11月 4日 「ツグナウ」 ローマの信徒への手紙3章 21〜28節

 信仰義認、信じることで義と認められることはプロテスタント派にとって柱となる。救われるということだけではなく、救われた私が神さまによって義とされることは、生きるための羅針盤である。
  信じることは一人ではできない。信じようとする人と、信じようとする対象の2つの関係による。義と認められた人は神の栄光を受けるとあるが、栄光とは「評判」をも意味する言葉であり、関係の中で多くの人に認められることである。
  義の反対として挙げられているのは「罪」である。罪は意味するギリシャ語ハマルティアは、的を外すという表現で説明されることが多い。つまり、中心を失っている状態であり、または、検討違いのものを中心と思っている状態だと言える。
 義と認められて栄光を受けること、そして、その反対の罪ということを重ねて考える時、私たちは、様々な関係の中で何を中心にして評価されようとしているのか、ということが問題になってくる。
  罪とは、中心になるはずのないものを中心として考え、中心にするべき神さまが外れてしまっている状態だと言える。だからこそ、その中心をもう一度、確かめなおすことが十字架の立てられた意味であり、償うということの意味なのだと思う。
 父なる神であれば犠牲なしに赦すことも可能であったが、犠牲の大きさによって助かった命の重さを示す、それが神の義であり、償うことの意味なのだ 
 そうであれば、私たちは自分では何とも出来ない破綻した関係を一度終わらせて、十字架を中心に神がたたえられる関係を作り、自分という最もやっかいな登場人物を幕引きさせる時に、終幕に向かって進み始められる。