説教要約(10月)


★10月28日 「わたしの名のために」 マルコによる福音書9章 33〜37節

  イエスさまの周りには多くの弟子たちがいたけれど、皆が平等を分かち合っていたのではなく、誰が偉いのかという議論をしている。その姿は弟子たちだけでなく、人間一般の内面を教えているように思う。
  弟子たちは、なぜ、そのような議論を始めたのだろう。それはこのマルコによる福音書の9章を振り返れば見えてくる。9章の初めには3人の弟子だけがイエスと山に登り、神の栄光を見る。しかし、山を下りてくると残りの弟子たちは、悪霊との戦いに負けていたのである。
 カファルナウムに向かう途中、恐らく、彼らは互いの報告を道すがらしていたのだろう。初めは、それぞれの体験を語るだけだったかもしれないが、それぞれの成功や失敗を誇ったり、指摘したりしている内に誰が一番偉いのかと言う議論になっても、不自然ではないように思える。
  イエスさまは、その議論は少し先を歩きながら聞いておられた。その時には何も言われなかったが、目的地の家について食卓に皆が並んだ時に、何を話していたのかと彼らに尋ねられた。
  弟子たちは、まさか自分たちの話を聞いているとは思っておらず、誰が偉いのかなど、イエスさまの前で話すこと自体が恥ずかしいと思ったのだろう誰も口を閉ざしたままになる。
  ドイツの詩にこのようなものがある。「キリストは、 この家の主。全ての食卓の見えざる客、全ての会話の静かな聞き手なり。」イエスさまは、弟子たちのこぼした愚痴や文句を、見えない姿で受け取り、それに反論もせず静かに聴いてくださっていたのである。
  イエスさまは偉くなりたい気持ちを否定していない。もし、何かを掲げたいのなら、イエスの名こそ、私たちが誇るべきものではないだろうか。そして、イエスの名において、低められる人こそ、神の目には尊いのです。

★10月21日

  ※特別伝道集会で、齊藤皓彦先生が説教されました。説教要約はありません。


★10月14日 「意志を取りのけなさい」 ヨハネによる福音書11章 38〜44節 

 ラザロは病気によって死に至り、墓に埋葬された4日が経っていた。当時の人たちは、魂が三日間は地を彷徨うと信じていたが、その蘇生の希望を失われ、本当に死んだという意味を4日経ったことは示している。
  完全な死を前に、ラザロの姉マルタは弱気になっていた。イエスさまが墓石をどけるように願っても、彼女はもう4日も経って、臭いもしますと言って断っている。これは単なる墓石のことではなく、深い意味がある。
  以前、祈祷会でペトロが弟子になる場面をテーマにした。そこでは、一晩働いて疲れたペトロが、イエスの願いによって船を出して漁をする内容が書かれている。漁師のペトロは自分の経験では読めなった大量の魚を引き上げて、自分から言った。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」その時に福音書はシモンをペトロ()と書いている。
  このペトロ()とはあだ名だが、ある意味で人間存在を表現しているように感じた。重くて、固くて、沈んでいくような罪のような存在。それがペトロではないだろうか。ここでマルタもペトロと言われる存在になっている。心の入り口に大きな石がふさいでいるのだ。
  その心をふさいでいる石とはなんだろうか。それは罪であり、神さまを信じられない思いなのだが、一体どのような思いなのだろうか。彼女は思っていたに違いない。イエスさま、遅すぎです。間に合いませんでした、と。
  先週に80代の友人が受洗したという報告をある方が喜んでして下さいました。それまでは色々なことを思って拒否してきた重い意志が砕かれたのですイエスさま、遅すぎですと、罪深い自分を振り返ると思います。まるで墓の中にあるラザロのように腐った気持ちになります。でも、そのような考えこそが、神さまの前ではジャマになるのです。さあ、心を閉じる石をどけ、遅すぎたと言う意志を取り除けて、神さまに救いを求めましょう。


★10月7日 「生きるという選択」 ヨハネによる福音書11章 1〜16節 

「この病は死で終わるものではない」。そう断言したイエスさまの思いはどこにあったのだろうか。この聖書の言葉をもとにして「死に至る病」(著者セーレン・キルケゴール)は書かれている。
  キルケゴールは哲学者だったため、その文章も内容も難解であるために、必ずしも正しく理解したとは思っていないが、彼は「死に至る病」を「絶望」だとしている。そして、その絶望は自分と言うものに潜んでいると言う。
 彼は自己と自己自身との関係から絶望が起こると言う。つまりは、理想像としての自分と、現実の自分との不一致に絶望すると言うことだと思う。そして、その絶望は外からではなく、自分の中に潜み、何かの拍子に表れる。
  イエスさまの愛した人の中にラザロもいた。ラザロが重篤であると言う知らせが来た時、なおもイエスさまはその場に二日間も滞在した。その理由は分からないが、私は、この自分に潜む絶望と相対する時間をラザロに与えたのではないと考えている。
  絶望は、自分の中に潜むゆえに気付かない病でもある。だからこそ、ラザロは病気よりも恐ろしい絶望と向かい合って、死で終わる命から、死で終わらない命を求めて、神様の前に立たなければならない。
  心打つ詩に出会った。「余命」(作者 佐々木美幸)は告白する。『ヨメイは「余命」ではなく「与命」なのです』と。残された日々を余った時間だと考える人は絶望して暗くなるが、与えられた時間を生きると神さまに振り返った人は生きる意味を理解している。
  ラザロを助けようとイエスさまは町に向かう。そこには命を狙う人々がうごめいている。イエスさまは選択した。自分が生きるのではなく、ラザロが生きることを。そして、死で終わることがないとは自身の命が捧げられてもと言う決意が込められている。命を与えられた者は、その命を他者に与える。