聖句配信 毎日「神」聞 (2月)
※は森嶋牧師のコメントです
来週と再来週、担当者の都合により、掲載が遅くなります。
★ 今週のテーマ 「見えない悪」
2月26日(月) 詩編25編7節
わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために主よ、わたしを御心に留めてください。
ふり返れば過ちは多く、恥ずかしいことばかり。しかし、神様は過去がどうだったかよりも、今、どうあるかを見ていてくださる。
2月27日(火) 創世記2章17節
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。
善と悪を知っていることと、善を選ぶこととは違います。相手にとって良いことを選ぶことができますように。
2月28日(水)箴言3章7節
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。
自分に自信がある時こそ、悪に気付かないのです。神様をおそれ、何事も自分では決めることができないから、神様に任せるのです。
3月1日(木) マタイによる福音書4章1節
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
できれば悪いことから離れたいです。しかし、試練として避けられない時もあります。より困難な選択をする人は鍛えられます。
3月2日(金)ヨハネによる福音書3章19節
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
見えない悪があります。善を悪といい、光を闇という人がいます。隠そうとする弱さをそれぞれが持っています。
3月3日(土) ローマの信徒への手紙7章19節
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
分かっていてもできないことがあります。自分の中にいるもう一人に気付きます。だから、十字架があるのです。
★ 今週のテーマ 「無言の励ましを受けて」
18日は創立68周年記念礼拝でした。
2月19日(月) マタイによる福音書18章20節
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
教会の土台となった聖書の言葉です。何事は始まりは小さいですが、心を1つにすることが神さまの願いなのです。
2月20日(火) 申命記 29章4節
わたしは四十年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。
68年間、私たちは神様に導かれ、足りない部分が満たされ、弱い部分が強められて歩んできたことに感謝します。
2月21日(水)イザヤ書 35章1節
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。
ゆけども、ゆけども、ただ砂原。希望の見えないこの地に、教会は一輪の花となりました。
2月22日(木) コリントの信徒への手紙二 8章2節
彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
教会を支えてきた一人ひとりを思う時、試練をものともせず、辛さをこらえて笑顔を見せてくださったこと、その生きる姿が無言の励ましとなりました。
2月23日(金)コリントの信徒への手紙一 10章13節
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
教会も数多くの試練に遭いました。しかし、その度に、考え、話し合い、認め合う機会が与えられたのもそうでした。
2月24日(土) マタイによる福音書 13章32節
どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。
砂地に種を蒔いて68年。教会は祝福されました。子どもたちが育てられ、誰にとっても休まる場所になりました。
★ 今週のテーマ 「誤った方向」
2月12日(月) 詩編23編6節
命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
自信をもって進んでいる時こそ、誤った方向に行っていることがある。それでも、神様は後から追いかけて呼び戻してくれる。
2月13日(火) ヨナ書1章3節
しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
思っていることと反対のことをしてしまうことがあります。そのような未熟さを神様は理解しておられます。
2月14日(水)(灰の水曜日) ダニエル書9章23節
お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。
どれほど落ち込もうと、その深さまでキリストは助けに来られる。十字架という深い体験をされたからだ。
2月15日(木) ルカによる福音書18章13節
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
届かないと思うほど遠くにいても大丈夫です。神様はその目の真ん中にあなたをとらえています。
2月16日(金)ルカによる福音書15章20節
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。
間違えれば正せばいいですし、それたら戻ればいいのです。人の言葉を恐れず、神様の言葉をにぎりしめて。
2月17日(土) ローマの信徒への手紙8章26節
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
祈る言葉が出ない時はただ黙しています。一人ひとりのうめきを神様は聞いています。
★ 今週のテーマ 「立ち上がり、歩く」
2月5日(月) 箴言24章16節
神に従う人は七度倒れても起き上がる。
生きることは「七転八倒」か、それとも「七転び八起」か。転んだ時に、誰かのせいにするか、神様と出会うのか。
2月6日(火) 詩編37編24節
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
あなたが倒れても、だれかがその手をにぎります。そのようにして、人は信じることを覚えるのです。
2月7日(水) ミカ書7章8節
わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光。
「傷ついた」と思うのか、「痛みを学んだ」と思うのか。その違いによって生き方が変わってくる。
2月8日(木) マルコによる福音書2章9節
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
「やさしいか」ということを忘れて、「ただしいか」ということに心を奪われないようにしたい。
2月9日(金)エフェソの信徒への手紙5章14節
「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
人生はトンネルです。トンネルに出口があるように、苦しみにも出口があることを信じます。
2月10日(土) ヨハネによる福音書20章26節
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
どれほど心を閉ざそうとしても、イエスさまはやってこられます。隠している痛みを知っているからです。