聖句配信  毎日「神」聞 (4月) 

                     

                      ※は森嶋牧師のコメントです



★ 今週のテーマ 「イエスの証人」

4月24日(月) 詩編50編23節

      告白をいけにえとしてささげる人は わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に わたしは神の救いを示そう。

        自分の姿をありのままに表現すること、それが命を造られた神さまを証することになります。


4月25日(火) 箴言16章8節

      稼ぎが多くても正義に反するよりは 僅かなもので恵みの業をする方が幸い。 

        少ないもので満たされ、足りないことで十分を知る。そうして、見えない力に支えられていることが証しされるのです。

4月26日(水) イザヤ書30章18節

      それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち
それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。

        私たちは未来にある希望を期待しつつ、すでにそれを受けたかのように生きるのです。信仰は未来に生きるのです。

4月27日(木) 使徒言行録2章32節

      神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

        復活の証人として、自分の命でありながら、誰かの命であるように生きます。命を背負っているのです。 

4月28日(金)ローマの信徒への手紙1章17節

      福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 

        神様は何を望んでいるのか。そう考える時、自分の弱さを超えて行動できるのだと思います。

4月29日(土) マタイによる福音書9章5節

      『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 

        ただしいことよりも、やさしいことをキリストは望んでおられる。


★ 今週のテーマ 「ここにいないが、ここにいる」

4月17日(月) 創世記28章15節

      見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。

        人が成長するのは、一人で生きようとするのではなく、共に生きようとする時だと思う。


4月18日(火) 詩編23編4節

      死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 

        時に、神様の鞭は厳しく心身を打ちます。痛みが優しさを教え、苦しみが謙遜を教えてくれるからでしょう。

4月19日(水) イザヤ書43章2節

      水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。

        信じているから災難が来ないわけではない。ただ、孤独という最大の危機を乗り越える力はある。

4月20日(木) マタイによる福音書28章9節

      すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

        朝の挨拶は気持ち良いですね。悲しまないで、笑顔でいてほしいという思いがそこにあります。 

4月21日(金)ローマの信徒への手紙12章12節

      希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 

        どのような時も、何か1つ希望が足元にあるはずです。祈りは、それを見つける光です。

4月22日(土) コリントの信徒への手紙二6章10節

      悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 

        七転び八起き、九転び十起き。転んでも、生きていれば起き上がる時が来ます。その手が差し出されます。


★ 今週のテーマ 「十字架の沈黙」
受難週に入りました。

4月10日(月) ルカによる福音書23章34節

      「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

        「自分が何をしているのか知らない」。自分を理解し、受け入れることに悩み苦しみます。だからこそ、その私を受け入れて下さった十字架は大きい。


4月11日(火) ヨハネによる福音書19章28節

      この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 

        忙しさの中で心もカラカラになります。どのような励ましも、慰めも入らないことがあります。それでも、キリストは沈黙して側にいてくださいます。

4月12日(水) ヨハネによる福音書19章26〜27節

      イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」

        十字架は痛みと痛み、弱さと弱さをつなぎます。弱さは強さに、痛みは喜びに。少し見方を変えるだけで、生き方が楽になります。

4月13日(木) ヨハネによる福音書19章30節

      イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

        生まれる時も、死ぬ時も自分ではどうすることもできません。人に任せ、神にゆだねるのです。力を抜くこと、十字架に寄りかかればいいのです。 

4月14日(金)今日は、キリストが十字架にかかった日です。 マルコによる福音書15章34節

      三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 

        苦しみは人を孤独にさせ、孤独はさらに苦しめます。同時に、苦しみの中で出会う人がいて、痛みを知ることで互いを知ります。

4月15日(土) ルカによる福音書23章46節

      イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 

        ある人は言います、死は終わりだと。また、ある人は言います、死は始まりだと。神を信じる人にとって、この世の終わりは天への凱旋です。

★ 今週のテーマ 「命に仕えて」

4月3日(月) 創世記25章26節

      その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。

        足を引っ張るという言葉があるが、人間は生まれながらに、他人よりも目立ちたい。この心のヤコブ病こそ、人に罪を犯させる。


4月4日(火) 詩編23編 5節

      わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 

        聖書において杯は「苦悩」を意味する。どうしても、受けなければならない苦悩は、神が与えた「杯」と信じ、ただ、それを飲み干す。それが、血となり、肉となることを願って。

4月5日(水) イザヤ書53章 6節

      わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

        私の選んだ道が、神様の思いからそれていることもある。それでも、十字架は神様のもとに戻って来れるよう、いつも、ここに立っている。

4月6日(木) マタイによる福音書 20章 28節

      人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。

        何かをしてもらう方がうれしいし、自分の言葉で人が動くことは気持ちがいい。でも、福音は、神の言葉によって私が働くことなのだ。 

4月7日(金) ガラテヤの信徒への手紙6章 14節

      わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。 

        十字架にかかるべきは、私だった。しかし、イエス様が代わられた。十字架は、もし、その人があなただったら、と言う問いを投げかけている。

4月8日(土) ペトロの手紙一2章 24節

      そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。 

        私には、キリストが命を捨ててまで生かす価値があったのだろうか。そう考える余地はなかった。私たちには、キリストが救った命としての価値がある。