聖句配信 毎日「神」聞 (3月)
※は森嶋牧師のコメントです
★ 今週のテーマ 「顔晴ろうよ」
3月27日(月) 詩編119編135節
御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください。
神さまは太陽のようにほほえんで、こう言っています。「あなたの悩みは知っている。私のように晴れた気持ちでいなさい。」
3月28日(火) イザヤ書 58章10節
飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。
苦しい状況が変わらないように見えます。それでも、今日の笑顔が何かを起こすかもしれません。明るい顔は、闇に差し込む光になります。
3月29日(水) ダニエル書1章15節
十日たってみると、彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった。
ダニエルは断食しましたが、その顔は輝いていました。彼の悲しみと憂いは、神への信頼を強くし、信仰が体を支えたのでした。
3月30日(木) マタイによる福音書17章2節
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
十字架の死は避けられなくとも、それをどう迎えるかは決めることができる。曇ったような顔なのか、晴れたような顔なのか、決めるのはその人である。
3月31日(金) 使徒言行録6章15節
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。
ステファノは最初の殉教者でした。周りの人々にバカにされても、信じて生きることを選び、自分を迫害する人にも天使のような顔で対応しました。
4月1日(土) コリントの信徒への手紙二 3章18節
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
私の足りなさや不満からその顔がしずんでしまっても、神様の力によって少しずつ変わっていきます。キリストのために、キリストのおかげで、ほほえむように変わっていきます。
★ 今週のテーマ 「つなぐこと、解くこと」
3月20日(月) 創世記18章26節
神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
この話には続きがあります。最後には正しい者が一人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そうと神様は言われました。その一人が、イエス様だったのです。
3月21日(火) 詩編32編5節
わたしは罪をあなたに示し 咎を隠しませんでした。わたしは言いました 「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを 赦してくださいました。
神様の御前だけは正直でありたいと願っています。今日も、そっと、「ごめんなさい」と祈ります。
3月22日(水) 箴言19章11節
成功する人は忍耐する人。背きを赦すことは人に輝きをそえる。
字架を背負って生きるのです厳しさを学ぶ社会の中で、教会は赦しを語ります。赦しは甘えを与えるのではなく、喜びを与えるからです。
3月23日(木) ルカによる福音書17章4節
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
仏の顔も三度までと言いますが、キリストは寛容ですね。これは、つまり、赦す度にキリストの思いを知ることなのかもしれません。
3月24日(金) コロサイの信徒への手紙3章13節
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
教会の土台は赦すことです。赦すことによって広がっていく関係です。欠けた部分のある人間をそのまま愛することです。
3月25日(土) ヨハネによる福音書20章23節
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
罪を忘れるのと、罪を赦すのは同じではありません。忘れても、罪は残るからです。キリストの言葉を支えにしながら、赦そうと生きるのです。
★ 今週のテーマ 「見えない鎖」
3月13日(月) サムエル記上16章23節
神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。
恐れや不安は誰にでもあります。まるで見えない鎖につながれた気持ちです。そのような時、賛美の歌が人を救います。
3月14日(火) 申命記6章16節民数記11章17節
わたしはそこに降って、あなたと語ろう。そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。
私たちはほっておくと孤立化します。だからこそ、集まって、語り合い、同じものを背負っていかなければなりません。十字架を互いに背負い合うのです。
3月15日(水) 詩編4編19節
主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。
自分を責めるのと、悔い改めるのは違います。十字架にかかるのではなく、十字架を背負って生きるのです。
3月16日(木) ローマの信徒への手紙8章21節
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
日本人は見えない鎖につながれています。「空気」と言う感覚です。空気を読むことに疲れ、神様に与えられた自由を失ってしまいます。
3月17日(金) ヨハネによる福音書8章32節
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。
差別や偏見は知識によって乗り越えられます。互いをよく知ることが、信頼を育てさせるのです。
3月18日(土) ガラテヤの信徒への手紙3章28節
見えない空気に閉じ込められないでください。私たちは十字架の前で共に立っています。いつも、1つであることを忘れてはなりなせん。
食べても感謝、食べなくても感謝。楽しくても感謝、悲しくても感謝。すべてから解放されたときに、この意味が分かるのでしょう。
★ 今週のテーマ 「我(が)との闘い」
3月6日(月) 申命記8章3節
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
私たちが生きるために食べ物が必要です。でも、食べ物を得るためだけに生きているのではありません。見えないものを求めて生きているのです。
3月7日(火) 申命記6章16節
あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。
あれがない、これがないと思うことはしばしばあります。他者や環境を言い訳にすることもあります。常に、神様の目が注がれていながらも。
3月8日(水) 申命記6章13節
あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。
この社会に頼るべきものはたくさんあります。権力、法律、経済、武力等。それぞれの得意分野で居直ります。主にのみ仕えるとは、それらを捨てることです。
3月9日(木) マタイによる福音書4章1節
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
荒れ野と言う何もない場所にイエス様は行かれました。何にも頼れない時にこそ、私たちは神様を思い出すからでしょう。
3月10日(金) ヤコブの手紙1章13~14節
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。
私たちの敵は外にいるのではなく、実に、私たちの内側にひそんでいます。自分を捨てて、十字架に従うとは、その我との闘いに勝つことです。
3月11日(土) ローマの信徒への手紙14章6節
食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。
食べても感謝、食べなくても感謝。楽しくても感謝、悲しくても感謝。すべてから解放されたときに、この意味が分かるのでしょう。