聖句配信  毎日「神」聞 (8月) 

                     

                      ※は森嶋牧師のコメントです



★ 今週のテーマ 「光を放つ命」

8月22日(月) ヨハネによる福音書8章12節


      イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

          暗闇とは無知、無関心のことである。光を放つとは、自分の罪に目を向けて悔い改めること。今、戦争の闇に、悔い改めの光を向けたい。


8月23日(火) 出エジプト記20章3節

        あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

          戦時中の教会では国民儀礼がなされていた。神でないものを神とする罪。人間を神のように拝む罪。その罪を、暗闇に葬ってはならない。※国民儀礼とは、天皇を拝むこと。すべての集会の初めに義務付けられた。

8月24日(水) ヨハネによる福音書8章32節

        あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

          戦争の過ちを振り返るのは、過去の人間を責めるためではない。もし、あの時代に生まれたなら、私も同じことをしただろう。大切なのは、真実を語る自由が今、あるかどうか。

8月25日(木) マルコによる福音書 12章17節

        イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

          どれほどの権威を持ったとしても、人間は人間なのだ。権威を恐れず、真実を語る姿をイエス様は見せてくださった。平和を語ることができない時代が来る前に、言うべきことを叫ぼう。

8月26日(金) マタイによる福音書6章24節

       だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。 

          戦争の中で教会は国家に屈服した。しかし、日本に教会が残ったのは、神様の憐みと言うしかない。神か、権威か。主人は一人しかいない。


8月27日(土)ルカによる福音書2章14節

       「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

         これは天使たちの歌声です。「弾圧は抵抗を呼ぶ。抵抗は友を呼ぶ。」という言葉の通り、平和を求める抵抗には、必ず友が現れる。一人の叫びが、大勢の大合唱を生み出す。※カッコ内は、沖縄の平和を求めて奮闘した政治家、瀬長亀次郎の言葉です。

★ 今週のテーマ 「戦争の名前」

8月15日(月) 哀歌2章11節


       わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので わたしのはらわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えてゆく。

          「終戦記念日」です。敗戦と言わないことに、意地のようなものを感じます。しかし、戦争には敗者しか存在しないのです。


8月16日(火) 創世記4章8節

        カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

          聖書は、殺人とは兄弟殺しだと教えています。戦争もそうです。遠い兄弟姉妹を憎み、殺すのです。でも、家族に戻る機会も残されています。

8月17日(水) 歴代誌上28章3節

        神はわたしに言われた。『あなたは戦いに明け暮れ、人々の血を流した。それゆえ、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない』と。  

          聖書の英雄ダビデに神が言われた言葉です。どのような理由があれ、血を流すことを神さまは嫌われるのです。平和の教会は和解を土台にするのです。

8月18日(木) ヨハネの手紙一1章8節

        自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

          日本人であるとは、日本の歴史を背負い、歴史の中にある罪を背負い、その罪に対する責任を背負っているということです。

8月19日(金) ヤコブの手紙4章17節

       人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。 

          この言葉は耳に痛いです。私たちは戦争の被害者ではなく、加害者です。次の世代に何を残し、何を伝えるか。できることを探しています。


8月20日(土)ヨハネによる福音書8章11節

       女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。

         キリストの前に赦されない罪はないと、信じています。だからこそ、私たちは戦争をするという、同じ罪に戻ってはならないのです。和解こそ、日本の願う金メダルです。

★ 今週のテーマ 「平和な食卓」
※8月7日は平和聖日で、アジアの方々との和解のしるしとして聖餐を受けました。


8月8日(月) 詩編85編9節


       わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

          日本は戦争を始めた国という歴史を忘れてはならない。平和は、戦争の痛みを忘れるという意味ではない。


8月9日(火) 詩編122編8節

        わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」

          様々な兵器や武器が人間の頭から考えられるように、平和への道も私たちの心から生まれるはずである。平和の種を、神さま、まいてください。

8月10日(水) マタイによる福音書5章9節

        平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。  

          その当時、「神の子」とは皇帝の呼び名でした。権力と武力が平和を作ると言うことです。キリストは、その力を捨てた時に平和を作る関係ができると答えました。

8月11日(木) マルコによる福音書9章 50節

        塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

          塩気を失ってはならない。周りが間違った方向に進もうとする時に、正しい一言を語る勇気が私たちにありますように。

8月12日(金) コリントの信徒への手紙二5章 17節

       だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 

          アジアに対する日本の戦争責任は重い。どう償うことができるだろうか。そう思いながら、目の前の留学生や異邦人に向かい合う。


8月13日(土)フィリピの信徒への手紙4章6~7節

       どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

         今年も一人の留学生が教会にいました。母からもらった手紙に書いてあった聖句だそうです。楽しい留学を終え、日本と母国を結ぶ平和の使者がここに生まれました。

★ 今週のテーマ 「ガリラヤへ行け」
※今週は、三浦先生(湖山教会三代目牧師)のメッセージでした。


8月1日(月) イザヤ書46章 9節


       思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。

          イエスさまが弟子たちに残した言葉とは、「原点」に帰れ、忘れてはならないことを思い出せということでした。信じるとは、常にそれを振り返ることなのです。


8月2日(火) 出エジプト記3章3節

        モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

          湖山教会の原点には熱い思いがありました。それは燃え尽きない熱意でした。小さなものを見過ごすことなく、足りなくても、貧しくても、与える豊かさでした。

8月3日(水) 出エジプト記17章2節

        民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」 

          親しい中にも争いは生まれます。牧師も信徒も関係ありません。だからこそ、ユーモアと誠実さが必要とされるのでしょう。

8月4日(木) 出エジプト記 14章 13節

        モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」

          この時代、見えないものに対する関心は薄れています。でも、神さまから受けた喜びに偽りはありません。あの喜びを失っていないですか、そういわれているような気がします。

8月5日(金) ルカによる福音書10章 35節

       そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」 

          この人は名前も知らない人を助けただけでなく、最後まで面倒を見ました。人に時間をかける姿、手間を惜しまない姿こそ、キリストの姿だと思います。


8月6日(土)※三浦先生の愛唱聖句です。 コリントの信徒への手紙一10章 13節

       あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

          試練などないような顔で、逃げたいという気持ちを抑えながら、神に仕えるように、人に仕える。希望があるというよりは、希望を創るという生き方がそこにある。